【はてなブログ】目次が動作しないエラーを解決した。
目次を挿入してみたら、目次が動かないことが判明した。
目次の章タイトルをクリックしても、なんの変化もなく、全く遷移してくれないのである。目次が動かないなんて、さて困った。
理由は、見出しをスクリプトにて強制変換していたからであった。大見出し(h3)をh2に、中見出し(h4)をh3に、小見出し(h5)をh4に強制変換しているように設定していたため、内部リンクがうまく作動せずに、全く遷移しないのであろう。
参考:【はてなブログ】大見出しをh3からh2に変更した。 - 傷鴨日記
したがって、これを何とかしないことには目次が動作してくれない。
で、解決策はあっさり出てきた(ググってもなかなか出てこなかったけど)。
見出し強制変換スクリプトを変更するのである。以下の記事にあるコードに書き換えれば、目次も問題なく動いた。
以下のコードを『デザイン』→『カスタマイズ』→『フッタ』欄に貼り付ける。
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これで見出しも強制変換されて、かつ目次もきちんと動作した。
【はてなブログ】目次をカスタマイズしてみた。
そういえばブログに目次を挿入してなかったので、カスタマイズして表示させることにした。
最近は長文の記事が増えてきたので、目次があった方が良いかなと思ったので。
ただし目次が大きすぎるとそれはそれで邪魔だなと思い、「開閉式」を採用した。
デザインは以下の記事を丸々採用させて頂いた。カスタマイズ例はググるとすぐ出てくるので本当助かる。
はてなブログ目次デザイン/シンプル/表示・非表示/下線/黒丸非表示 - スキナコトワークス
大見出しばかりになると下線ばっかでややクドくなってしまうが、まあいいや。
石田梅岩の思想:商人としての正しい在り方
石田梅岩という思想家をご存知だろうか?
石田梅岩は江戸時代に京都にて商人としての道を歩み、その後は思想家としてあるべき人の道について説いた、日本を代表する思想家の一人である。
世界中で貨幣経済が大発展した近世から現代までにおいて、日本があっという間に近代化できたり、第二次大戦後に驚異的に復興・発展を遂げられたのは、日本の労働者が極めて勤勉で、優秀だったからだ。
その原点の一つが、石田梅岩が説いた「石門心学」であると言われている。
今回はその石田梅岩について紐解き、人としての正しい在り方、あるいはお金を稼ぐことの意味合いについて学んでいきたい。
石田梅岩とは
石田梅岩は1685年、京都の東懸村(現・京都府亀岡市)に生まれる。「梅岩」とは後に自身がつけた号で、諱は興長(のりなが)、通称は勘平だった。
石田梅岩の半生
彼の一族はそれなりに裕福な農家だったそうであるが、次男として生まれたため、若くして京都の商家に奉公に出た。
彼が勤めたのは呉服商の黒柳家で、そこで20年間もの期間を必死に働き、最後は番頭( 商家の使用人の最高職位)にまで登りつめた。
青年期の梅岩が育った元禄時代(1688〜1704年)は、武士の力が衰え始める一方で経済活動が活発になり、町人の力が増していった時代である。それとともに米経済から貨幣経済へと移行し始め、商業が発展していったとされる。また、町人の台頭によって町人による文化、いわゆる上方文化が開花した。
石田梅岩は商人としての道を歩みつつ、学問にも大いに励んでいた。朝は誰よりも早く起きて、夜は皆が寝た後でも書物を読んで過ごしたのだそうだ。そこで神道・仏教・儒教を学び、儒学者の講義なども聞きに行くようになった。
石田梅岩は学問を通して、次第に「人の人たる道」を追求し始め、石門心学の主要思想とされる「節約」「正直」「勤勉」の重要性を悟り、これらを市民に広めたいと思うようになる。
30代半ばに仏教者である小栗了雲と出会い、彼に惹かれた石田梅岩は師事する。これにより、本格的に思想家としての道を歩み始めた石田梅岩は、42歳の時に黒柳家の奉公を辞して、学問に専念するようになった。
石田梅岩は小栗了雲の死後、自分の思想を他の人に広めるべく無料の講座を自宅の一部屋を使用して開いた。ここでは儒教・仏教・老荘思想・日本の古典まで幅広くの書物を読み聞かせ、解説するというものであった。
もちろん最初は誰も聞きに来ることはなかったものの、徐々に聴衆が集まり始め、次第に町人たちに受け入れられるようになった。ひいては関西各地への出張講義も行うようになり、彼の思想は町人層を中心に広まっていくことになった。
石田梅岩が講義を開始した8代将軍徳川吉宗の時代は、有名な「享保の改革」のもと、倹約と増税を頼りに幕府の財政改革を進めている最中であった。一方各地では豪商や豪農が誕生し、格差が拡大した。このような背景の中で「人の人たる道」を説き、商人としての商業活動の肯定化にも励んだことから、町人たちにはその精神が受け入れやすかった。次第に弟子たちも生まれ、石田梅岩という名が世に広まるようになった。
石田梅岩の思想
石田梅岩は晩年、弟子たちを集めて、今でいうゼミナールのような研究会を開いていた。ここでは人生や家族、経済活動から財産相続まで、多岐にわたるテーマが議題となっていた。
その後、研究会の総決算として、弟子たちにも協力され、54歳の時(1739年)に『都鄙問答』、58歳の時(1744年)に『倹約斉家論』を刊行し、59歳にて死去した。
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
- 作者:石田梅岩
- 発売日: 2016/09/29
- メディア: 単行本
『都鄙問答』では商人の道が説かれている。
商人は法を守り、「倹約」に励むことで世の中の役に立てる。結果として子孫繁栄の道に繋がると説く。
また、商人の道は私欲を抑え、家業に励むこと、すなわち「勤勉」に始まる。この道を知るため、商人にも学問が必要であると説く。
商人が正しい利益を貰うことは正当な行為であが、そのためには「正直を守る」ことが必要である。そのため、二重の利益は取るべきではなく、利益追及に溺れる経営をしてはならないと説く。
このように、石田梅岩は商人の社会的意義を主張した上で、正直かつ義のある行動を取ることが商人としての正しい道であると強く主張していた。
石田梅岩の死後:石門心学の発展
石田梅岩が亡くなった後、商家出身の弟子たちは彼の遺志を継いで、講義や研究会を継続する。最年少の直弟であった手島堵庵は、周りの要請に応じて石田梅岩の教えや関連学問を講じるための心学講舎を京都に開設した。
さらに手島堵庵の門下生たちが関西や江戸にて布教活動に乗り出し、各地に心学講舎が設立され、町人だけでなく武士たちへの普及にまで活動を広げていった。
ところで「石門心学」であるが、そもそもは手島堵庵の弟子である中沢道二が「心の学び」として広げていったことから、「心学」と呼ばれるようになったとされる。ただし中国の王陽明が説いた陽明学も心学と呼ばれていたことから、それと区別するために「石門心学」と呼ぶようになった。
石門心学は幕府の批判もせず、身分を越えた視点で道を説いたため、幕府からも受け入れられた。そのため幕府も普及を後押しし、ついには大名や上層武士たちにも浸透し、全国的に広まっていった。心学講舎においては、最盛期に全国で170ヶ所以上に達した。
その後は誰もが自由に学べることもあって石門心学は衰退するが、現在でも一部は心学関係団体(一般社団法人心学修正舎など)として活動を続けている。
商人に道徳を説いた石田梅岩
商人で道を知らない者は、ただ貪ることだけをして家を滅ぼす。商人の道を知れば、欲心から離れ、仁心で努力するので、道に適って栄えることができるだろう。これが学問の徳というものである。
- 『都鄙問答』より
「貪ることだけ」とは言わば自身が秘めた欲望を抑えることができず、自分の利益を追求してしまうことを言っている。石田梅岩は、これをやってしまうと身の回りを滅ぼすことになってしまう。
したがって、そのような欲望からは距離を置き(欲心から離れ)、常に思いやりを持って努力をする(仁心で努力する)ことを心がけなければならない。石田梅岩はそのような、実行するにはやや厳しい態度を我々に示している。
これに対して疑問を持つ者が多くいた。なぜなら当時、商行為は「貪ること」を生業としていると信じられていたからである。そして、商人は文字通り「欲望の塊」とも揶揄されていた。俗にいう賤商観、商人は賤しい者と捉えられていたのが当時の風潮であった。
石田梅岩はこの意見に強く反対している。彼は、商人もきちんと学問を修め、人として正しい態度で仕事に向き合うことで、労働の質も向上されると思っていた。
このように石田梅岩は人間の本性は道徳にあると説き、それを前提として商人道を説いた。奇しくもこれは、「道徳感情論」にて道徳を説いた後に「国富論」にて経済論を説いたアダム・スミスと同じ手順となっている。
アダム・スミスも石田梅岩も、自己愛(欲望)を抑制させ、傍若無人に自己の利益を追求する行為を否定しているのである。
さらに石田梅岩の思想の実践が厳しいのは、自身が行う全ての行為が、公共の利益を追求するものとなることを説いているからである。アダム・スミスの言う「見えざる手」に頼るのではなく、自らの精神を以って、その公共の利益を実現できる行為に励むこと。これが彼が求める道徳論であった。
商人道のあるべき姿とは
先述したが、「士農工商」と言う言葉で最後に「商」という言葉が来るように、当時の商人に対する風当たりの強さは相当なものがあったのだそうだ。
「商人は何も生産せず、単に横流しをして金を稼いでいる」、「商人は何も
生み出さず貪っているだけ」のような偏見が世間を覆いつくしていたのである。
売買を常日頃より自らの仕事をしながら、何が商人の道に適っているのか、全くわかっていない。どういうことを大切にして、売買の仕事をするのが適切なのだろうか。
- 『都鄙問答』より
『都鄙問答』は「問答」とあるように、ある受講生の質問に対して石田梅岩が回答する形式の書籍となっている。上記はそんな世間の偏見に苦しんでいたであろう商人の質問である。
この質問に対して、石田梅岩は以下のように答えている。
商人の起源から言うと、昔は余っているものと足りないものと交換して、相互に物を流通することが目的だったのだろう。商人は精密に計算しながら、今の世で仕事をするものなので、一銭も軽んじることがあってはならない。こういったことを重んじて財産を成すことが、商人の道である。
- 『都鄙問答』より
商業の本質は「交換と流通」であって、社会的に意義のあるものだと説いている。
今となっては当たり前に捉えられている意義かもしれないが、しかしどうも「お金稼ぎは悪いこと」と、現代の多くの人が思っている。私もその一人で、意義あることは分かっていても、何か罪悪感のようなものが生じてしまうのである。
石田梅岩はその疑問に対して、明確に回答している。
財産の元は天下の人々である。彼らの心も自分の心と同じなので、一銭すらも惜しむ気持ちがあることを推測できるだろう。
商品に心を込め、少しも粗雑にせず売リ渡せば、買う人もはじめは「お金が惜しい」と思うにしても、商品が良質であることから、その惜しむ気持ちがなくなっていくはずである。惜しむ気持ちをなくすことは、人々を善導することを意味するものだ。
天下の財貨を流通させてすベての人々を安心させることができれば、「四
季が交代して、すベての生き物が自然に養われる」ということと同じく、理に適っている。このようにして、財産が山のようになったとしても、それは欲心と表現すべきではない。
- 『都鄙問答』より
私に響いた点が、太字部分である。商人として思いやりを持ち、商品に心を込めて、大切に売る。良質な商品であれば、買い手も惜しむことなく手に取ってくれる。そのような道をもって財産を築いても、それは全くもって欲心ではない、一切問題のないものだと、そう説いているのである。
ここで私を含め、現代人の多くが「お金儲けは悪いこと」と捉えている理由がなんとなく分かってきた気がした。
要するに、最近の経済というと石田梅岩の言う欲心に囚われた経営者があまりに多いということだ。石田梅岩の言う正しい商人道を歩んでいる人があまりに少なく、マネーゲームと化している現代に、人々は嫌気が差しているのかもしれない。尊敬できる現存の経営者は、果たしてどれだけいるだろうか。
梅岩にとっては、「正しい財産」と「正しくない財産」がありましたが、その判断は、財産を獲得した商人の心が、どのような状態であったかに大きく左右されます。
- 『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか』より
石田梅岩が「彼らの心も自分の心と同じなので、一銭すらも惜しむ気持ちがあることを推測できる」と言っているように、買い手にもお金を惜しむ気持ちがあり、それを想像し、思いやり、それを踏まえて売買する。これこそが商人としての正しい姿なのである。
正直であれ
自分に他人の誠実と不誠実がわかるように、他人からもまた、自分の誠実と不誠実はわかることを知らない者が多い。『大学』に書かれているように「他人は自分の心の奥底まで見抜く」のである。この真理を知れば、言葉を飾らずありのままにいうので、正直者と思われ、また、何事でも任され頼られて、苦労することもなく人一倍、物を売ることができるのだ。正直だと思われ、打ち解けることは、自分にも相手にも善であると知らなくてはならない。
- 『都鄙問答』より
商人の意義を示しつつ、一方で石田梅岩は道に沿わない商人を正そうと努めていた。その訓言の一つが、「正直であれ」というものだ。
世の中に道の沿わない商人が溢れかえると、長期的に衰退していく。商品の質が下がり、結果的に競争力も下がり、生活水準も低くなってしまうのである。己の欲望のみに従い短期的に莫大な利益を得たとしても、長期的には酷い状況を招いてしまうのだ。
逆に正直に商売を行った者は、結果として商売も繁盛するだろうと石田梅岩は述べている。
不正があれば直ちに報告して正す、問題があれば伝える、問題を隠して利益を取らない。
当たり前の行為のようにも見えるが、これをできない企業がいかに多いことか。昨今の不祥事は、まさに正直さを包み隠した行為であると言える。そして結局は自らを更に苦しめることになり、ひいては国家そのものが衰退してしまうのである。そろそろ我々は、真の危機感を覚えねばならない。
孔子も、「自らが望まないことを、他の人にしてはいけない」といっている。自分が嫌だと思うことは、他の人も嫌がるものである。
私が木綿を分けるならば、あなたに良好なほうを渡すだろう。あなたが分けるなら、私に良好なほうを渡すはずだ。またあなたが織りの良好なほうを取り、私に悪質なほうを渡すならば、あなたに切り分けてもらったので、それも当然と納得する。
このように考えておけばいつでもうまく事が運ぶだろう。あなたに良質なものを渡せば、あなたは喜び、私は仁心を養うことになる。よいことではないか。
- 『都鄙問答』より
引用している孔子の言葉は「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」という有名な格言である。孔子は、弟子に「一生の信条に値する言葉は何か」と聞かれ、「恕である」と答えた上で、これを述べた。恕とは思いやりのことで、なるほど確かに素晴らしい教えであるが、実践するのは非常に難しいことである。
参考:「自分のやりたくないことは、人にするな」が、できない。 - 傷鴨日記
しかしこの言葉通り、相手の気持ちを第一に考えて、理に従った行動をすること。これを積み重ねることで、自らの心が磨かれ、徳を積むことができるのである。
このような場面は日常のあらゆるところで遭遇する。選択するのはいつも自分で、私欲を断つことができる人のみが、正しい道を歩めるのである。実に厳しいことであるが、心に留めて精進したいものである。
人のための倹約
消費と倹約は二者択一に捉われがちであるが、そうではない。消費も必要だし、倹約の意義を知ることもまた、必要である。
消費は経済を回すためには必ず求められる行為であるし、それが豊かな社会形成に繋がることは確かだ。だが、それが暴走してはならない。欲望に囚われ、欲しいものに取り憑かれ、依存し、思うがままに消費してはならない。
「消費することが幸福に繋がる」という幻想に取り憑かれはならない。それには限度があり、自分自身で抑制しなければならない。そのために、倹約の意義を知るのである。
消費は必要で、その暴走を止めるために倹約の意義を知るのである。超消費社会である現代だからこそ、その重要性はさらに高まっているのだ。
そして石田梅岩は先述した通り、「倹約」を主張していた。彼の言う倹約とは単なる節約ではなく、倹約が世の中のためになるという主張が含まれている。
倹約ということは、世に説かれているものとは異なり、自分のために物事を節約することではない。世界のために、従来は三つ必要だったものを、二つで済ませるようにすることを、倹約というのである。
『書経』にあるように、「民は国の根本で、根本がしっかりしていれば、
国は安らかに落ち着く」のである。その根本は、民に食料が足りていることなのだ。このために、君は民より年貢を少なめに納めさせ、民を豊かにしようとする。
- 『石田先生語録』より
普通、倹約とは自分のためにすることのように思われるのだが、石田梅岩のいう倹約は、世界のためになるというのである。それを示すためにも、まずは国を治めるものが率先して倹約すべきと主張している。
このあたりはまさに儒教の影響が強いと思われる。『書経』とは儒教の経典である五経の一つである。儒教の教えは「己を修養し、国を治める」ところにあるのだから、先ずは為政者が倹約をするという考えは当然である。
また、私の好きな春秋時代の政治家「晏子」も似たような考えの基、自らは大変質素な生活を営んでいた。尊敬に値する行いである。
参考:「晏子春秋」に学ぶ、人として正しい生き方とは。 - 傷鴨日記
しかしながら石田梅岩は、為政者は率先して倹約した上で、たとえどういった身分であろうとも倹約は必要だと述べている。各々が倹約すれば、各々の家が整い、ひいては国全体が治っていくと考えているのである。
では、倹約することで得られる効果はどのようなものがあるだろうか。
石田梅岩は、倹約が単なる金銭的余裕を生むだけでなく、人間関係も改善すると主張している。
例えば親戚や友人を招いた時、贅沢を好むものが開くと、必ず豪勢な料理を出そうとするはずだ。しかしそんなことばかりするとあっという間にお金が尽きるため、会を開く回数が減り、結果的に人々との距離が生まれてしまう。
変に見栄を張ることなく、経済的負担を少しでも軽くすることで、より親しくなれるのではないかというのが彼の主張である。
また、日頃から倹約に努めることで、いざという時に人々を助けることができるとも説いている。本当に困窮しているものを助けることができるし、困った知人に手を差し出すこともできる。
倹約によって身近な人々が幸せになり、人間関係がよりよくなるという考え方だ。
経済的に困窮しているものや、よく働く者にボーナスを与えることは、私心を交えれば多大な消費であり損失である。しかし彼は、そういった者に経済的援助を行うのは、本来の彼らの姿を取り戻すことに繋がり、これはまさしく倹約であると言っている。
困っている人を援助して、無事に職に就くことができれば、収入を手にし、精神の安定にも繋がる。ボーナスを与えれば、その人々の周りもまた幸せになる。彼らの本来の姿を取り戻すことが、この世の為に繋がるのである。したがって、人のためにお金を使うことですら倹約になるというのだ。
私欲ほど、世に害をなすものはないだろう。このことを理解せずして行なう倹約は、どれも吝嗇に至り、大きな害を及ぼす。私がいっているのは、正直から始まる倹約なので、人を助けるものである。孔子はいう、「人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運にも災いを免れた者に過ぎない」と。これを踏まえれば、不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ。恐るベきことである。
- 『倹約斉家論』より
吝嗇はケチのことで、私欲のために節約をする。対して石田梅岩のいう倹約とは世界のための節約であり、両者には決定的な違いがあると述べている。
正直さを失い私欲に従い財をなす者。頑張っている者に対して報酬を与えない者。ケチをつけてクレームをつけ金を取り上げる者。なるべく安く雇用し、働かせた挙句にクビにする者。どれも死人に等しいというのだ。この教えは忘れないでおきたい。
残念なことに現代はこの教えに逆行して、年功序列システムによるリストラ問題や非正規雇用率の上昇、外国人労働者問題と、厳しい時代を歩んでいる最中だ。確かに会社を家族と考えるのは時代遅れかもしれなが、それでもルールに従えばそれで良いと割り切るのではなく、思いやりを持った経営を追求してほしいと願うばかりである。
まとめ
最後に改めて石田梅岩の振り返ろう。
- 商売は悪ではない。思いやりを持った売買を通して得た財産は、誇るべき者である。
- 道徳に沿って正直に行う商売こそが、商人としてのあるべき姿である
- 世のために行う倹約が、我々を豊かにしてくれる
石田梅岩の説く石門心学は、人として、商売人としてのあるべき姿を示し、これから更なる発展を築くための教科書なのである。
どのような状況に置かれようと、正直に思いやりを持って行動し、私欲から離れ、ひたむきに努力すること。これを人々が実践できるかどうかに将来はかかっている。
私も頑張りたい。
参考文献
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
- 作者:石田梅岩
- 発売日: 2016/09/29
- メディア: 単行本
- 作者:森田 健司
- 発売日: 2015/10/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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国富論の本質とは?要約して解説 - 傷鴨日記
「小確幸」小さいけれど確かな幸せを見つける。
「小確幸(しょうかっこう)」という言葉がある。
「小さいけれど確かな幸せ」を略したもので、作家・村上春樹により生み出された造語である。
生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきり冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。
- 村上春樹『うずまき猫の見つけ方』より
韓国や台湾で流行した「小確幸」
この小確幸という村上春樹により創り出された言葉は、彼の影響力の大きさもあってたちまち世界に広がり、韓国や台湾で大流行りしているのだとか。
いま韓国で小確幸(소확행)がトレンドとなっていることについて思うこと。 - Koguma
日常の小さな喜びを表現した言葉が、たちまち多くの人の共感を読んだのであろう。確かに単語としても「しょうかっこう」と呼びやすく、インパクトもある。
韓国は日本と同じように学歴社会で大企業志向・ブランド志向の強い国だ。そんなこともあり、世の風潮に疲弊した人々には救いの一言になったのではないだろうか。
「小確幸」台湾でブーム 村上春樹さんエッセーの言葉 - 朝日新聞デジタル
一方台湾では村上春樹が意図したものとは異なった(?)使い方がされている。小売業の「セールス文句」として使われているらしいのだ。
スイーツなどの商品名に「小確幸」が用いられている。確かにコンビニスイーツ等はまさに小確幸を表しているのかもしれない。私も今日久しぶりにサイゼリアで食事をしたが、無職の私にはそれが至福でしかなかった。
大きな幸せではなく、日常に幸せを見つける
バブルを経験した日本も、消費社会が激しくなり、誰しもが身の丈に合わない生活に夢を抱くようになったと言って良い。
結婚式は盛大。住宅ローンを組んで高い家を手にし、マイカーを乗り回し、子供には私立へ通わせる。一攫千金を狙って宝くじに手を出す、仕事で不正を働く、など。挙げればキリがないかもしれない。
が、そんな時代も不景気になるにつれて、収束に向かっていくかもしれない。大きい幸せに、国民の大半には手が届かなくなってきたからだ。届いたとしても、何かを犠牲にする羽目になるかもしれない。
大きな幸せではなく、小さな幸せ。それも、日常の中にこそ幸せは隠されている。その事実に、人々がだんだんと気付き始めたのかもしれない。
今は過渡期なのだろうと思うし、「小確幸」もこれからもっと広まっていく概念になるかもしれない。
本来の姿へ立ち返る
「大きい幸せから小さな幸せへ」。これは思考の転換というより、もともと日本人が持っていた考え方への回帰ではないだろうか。
というのも昔の日本人、いやどこの国の市民も皆がみな貧乏であり、身の丈にあった生活をしていたからである。
そんな生活の中で、多くの人が小さな幸せを見つけては、それを詩や俳句、随筆や文学にして記録していた。松尾芭蕉や兼好法師、鴨長明なんかは良い例だろう。また、多くの日本人が影響を受けていた中国古典にも、似たような記載はいくつもある。
国民がこれほど豊かになったのは人類史上初めてだろうし、今や未知の世界に成りつつある。そんな中で昔の人々が持っていたとされる「小確幸」の思想は、我々が生きる上でも大いに役立つ考えとなるであろう。早めに身に付けておきたいものである。
風もなぎ波もおさまって物みな静まりかえる。そんな静寂の中にこそ、人生の醍醐味を見出すことができる。
質素な暮らし、たまさかの物音。そんな枯淡の境地にあってこそ、人間本来の心に立ち返ることができる。
- 『菜根譚』より
私のここ1ヶ月で見つけた小確幸、小さいけれど確かな幸せを羅列して締めることにしたい。
- 自炊して作る味噌汁が美味しい。
- おかめ納豆が美味しい。
- 食パンとブルーベリージャムの組み合わせが美味しい。
- ランニング中にカブトムシが引っ繰り返っているのを見つけた。起こしてあげた。喜んでいるに違いない。
- 散歩中にカワセミを見つけた。光り輝いていて美しかった。
- カルガモを眺めるといつでも心が和む。
- シマリスを見るといつでも幸せになれる。
- ブログに反応があると嬉しい。
- 図書館で穏やかに一日を過ごす。心が休まる。
- 本を読んでると、次第にうとうとして、ちょっと寝れる。気持ち良い。
- ふとした時に友人から連絡がくる。思いがけない出会いを味わえる。
- 乃木坂46を拝めば、疲れも吹っ飛ぶ。
- 作者:春樹, 村上
- 発売日: 1999/03/02
- メディア: 文庫
「晏子春秋」に学ぶ、人として正しい生き方とは。
宮城谷昌光の小説『晏子』が非常に面白かったので、題材となっている『晏子春秋』についても手に取ってみた。
晏子(晏嬰)とは春秋時代の斉の宰相を務めた政治家で、彼の徳と名声があまりに高かったものだから、後の戦国時代から彼を尊敬する者たちが有志で言行録をまとめた。それが『晏子春秋』である。晏子は晏嬰の尊称であり、今では晏子の方が広く知られている。
私は特に彼の生き方、それも身分の高い地位にありながら「清貧」を貫いたその思想に感銘を受けたので、それらのエピソードを紹介していきたいと思う。
『晏子春秋』と、晏嬰の思想
『晏子春秋』は内篇6巻及び外篇2巻の計8巻・全215章の構成となっている。第1巻〜第6巻は主に晏嬰が仕えた君主への諫言に関連した話や逸話が収められている。第7巻には最初の6巻から類似した説話が、第8巻は反儒教的な話が入っていたり、1〜7巻とは趣旨が異なっている。
晏嬰の思想はというと、先ず冒頭に挙げたように大変な倹約家であり、清貧の思想を貫いていた人物と言える。常に質素な生活を貫き、己の欲望に屈することは無かった。
そして与えられた職務は全うし、礼法を重視し、それを前提に人間関係を築いた。また、彼は君子に仕えたのではなく、人民、ひいては社稷(国家)に仕えていると自ら申し、君子に対して堂々と諫言を行っていた。
諫言は君子を怒らせ、最悪の場合は自らの死、および一族の死を招く非常に勇気の求められる行為であるが、彼は臆することなく君主に対して何度も諫言を行い、思想を貫き通した。
晏嬰は身長がわずか150cm程度で大変貧弱な身体であった。当初は晏嬰の父である晏弱および彼の一族のあらゆる者がその貧弱さを嘆いていたが(なにせ、晏一族はもともと武勇を誇る族であったから)、最終的には誰もが尊敬する偉大な賢人へと成長していった。
『史記』の作者である司馬遷も晏嬰に対して最大級の賛辞を述べているし、現代になっても『晏子春秋』を基に彼を尊敬する人が後を絶たない。
晏嬰の「清貧さ」を表すエピソード
ここからは晏嬰がいかに質素倹約な生活を行い、欲望に負けず、「清貧さ」を貫いていったのかを表すエピソードを紹介していきたい。
なお、これらは主に以下の書籍からの引用で、補足等を別途加えさせて頂いている。また、これらのエピソードのいくつかは宮城谷昌光の小説『晏子』にも出てくるので、興味がある人は先ずそちらに手をつけて頂ければと思う(歴史小説で非常に面白いし読みやすい)。
また、晏子春秋によく出てくる恵公という人物は、当時晏嬰が仕えた斉の君主である。
職を辞めて耕作に転ずる
壮公(恵公の前代)は諫言ばかりしてくる晏子を疎ましく思うようになり、ついには晏子に対して遠回しに職を辞めるように仕向けた。
それに気づいた晏子は官給の品物は全て返上し、私物は市場に放置し、職を辞めた。
「国民が裕福であれぼ、高禄をいただき、富貴を断るものではないが、国民が貧窮している時には、他郷で貧践を味わうことをいとうものではない」といって、東方の海岸まで歩いて移り、そこで耕作をして身を過ごした。
荘公は、晏子がいなくなって諫言をする者もなくなったので、思うままに力自慢の者を採用し、国民の勤勉努力を考えずに軍兵を増やし、晋(斉の敵国)に攻めこむなど戦いをやめることがなかった。そこで国は疲弊し、国民は困窮した。その上、荘公は素行が修まらず、自分を擁立した崔杼(さいちょ:斉の大臣)の妻と通じて、その邸で殺される結果になった。
恵公の前代である荘公は、自らの欲望を止めることができず、わずか5年の在位で死んだ。恵公は徳政により、晏子を呼び戻している。
———
辞めろと言われてきっぱり辞められるものは少ないだろうが、晏子はきっぱりと、しかも俸禄や財産も捨てて辞めた。そして自ら貧民に降った。またこのエピソードに限らず、晏子は自分に衰えを感じ、自身の能力が身分にふさわしくないと思うとすぐに辞職を願い出ている。この勇気は、見習いたくても見習えない所業であろう。
ちなみに崔杼は晏嬰の父である晏弱の代から活躍し、度々晏弱の助けにもなっていた優秀な大臣だったのだが(このあたりは小説『晏子』を見て頂きたい)、最後は欲望と私怨に取り憑かれ悲惨な最期を迎えた。
恵公が天災を憂えないのを諌める
その年、天候不順で長雨が17日も続いたのに、景公は相変わらず酒を飲み続けていた。晏子が、蔵米を出して困窮している人民に分配するよう願い出たが、三回願い出ても聴き入れられなかったばかりでなく、拍遽(はくきょ)という家臣に命じて、国中から歌のうまい者を集め、享楽にふける有様であった。
晏子はこれを聞いて歎き悲しみ、遂に自分の家の扶持米を民に分ち与え、それを運ぶ道具や馬車まで道路に置いて救済に当たった。そして自分は歩いて宮廷に行き、景公にお目通りを願っていった。
「長雨が17日も降りつづいて、家が壊れたものがーつの村に数十もあり、ーつの部落に数軒は食ベるものもない有様です。国民は老いも若きも、寒くても着るものもなく、飢えても食べるものとてありません。うろうろとさまよい歩き、訴えるすベもない有様であります。
それなのにあなたは、そのことを心配もされず、日夜酒を飲み、国中から歌のうまい者を集めて楽しんでおられます。政府の馬は蔵米を食べ、犬は肉食に満腹し、側妾は美食を当然と思っています。官廷の者だけがよすぎて、民百姓がひどすぎませんか。
ですから村や町は困窮してもそれを訴えて救って貰えないので政府の有難さもわからず、民は餓えても心配して貰えないので君主の有難さもわかりません。
自分は命を奉じて百官を統率して参りましたが、人民に飢餓困窮を訴えさせることもできず、あなたを酒色にふけさせて、民心を失わせてしまいました。私の罪は大でありますから、辞任させていただきます」と深く頭を下げ、別れを告げて、早々に出て行ってしまった。
景公は驚いて大急ぎでこれを追いかけ晏子の家までやってきたがすでに居らず、蔵米は全部なくなっており、道具や車が路に出されたままの状態だった。景公はさらに馬を駆りたてて、町外れの大通りで漸く追いつき、車を降りて、晏子とー緒に歩きながら言った。
「自分が悪かった。おまえに見捨てられては自分は何もできないじゃないか。おまえは国中人民も見捨てるのか。どうか自分を今まで通り援けてほしい。斉の国の金も食物もすべて人民のために出すから、お前の思うようにしていい。どうか思い直してくれ」と、遂には道に座りこんで頼みこむ有様であった。
そこで晏子も了解して政庁に帰り、役人に命じて国中を巡回させ、支援に当たらせた。その処置は実によく行き渡った。
景公も宮廷を出て民間に宿をとり、生活を簡素にして酒をやめ、食物をヘらし、政府の馬には蔵米を食べさせず、犬には肉を与えず、近臣の俸禄を減らし、食客にも節約をさせた。
景公はそれから私邸に入って謹慎生活をし、食事の膳を減らし、歌舞音曲をやめた。
———
荘公は悪徳君主であったが、残念なことに恵公も中々のクズであり、酒と狩りが大好きだったらしい。したがって『晏子春秋』は、そんなクズな恵公に対する晏子の諫言が多くおさめられている。
しかし荘公と違った点は、晏子の諫言を最後まで聞き入れたことである。
結局後世でも恵公が評されることは無かったが、自分の悪行を認め、晏子の諫言を素直に認めるその姿勢は素晴らしいものだと思う。
富に対する考え方を説く
晏子は君主から俸禄や領地を与えられようと必ず固辞し、富を追求することは無かった。
そこで高子尾(こうしび)という者が不思議に思って「富というのは誰でも欲しがるのに、あなたはどうして受けないのですか」とたずねた。
すると晏子は以下のように答えたという。
「慶氏の所有地は欲望を満たすに充分な土地であるが、それで亡んだともいえる。自分の所有地は欲望を満たすことはできないが、これに与えられた土地を加えると、満たすようになる。そうなれば、間もなく亡ぶようになるだろう。そうしたら、ーつの村だって治めることができなくなるではないか。土地をいただかないのは、富を嫌っているのではなくて、富を失うことを恐れているのだ」
またこうも言っている。
「富というのは反物の幅がきまっているようなもので、これを変えることは許されない。人は生活が充分で費用は豊かであることを願うけれども、正しい徳をもってその欲望に制限を加え、みだりに越えないようにしなければならない。これを、人の裕福を願う欲望にー定の制限を設ける(利を峨(が)す)といい、欲望が過ぎると、人の生活は乱れ敗れることになる。自分が必要以上に多くを求めないのは、この利を幅することなのだ」
———
晏嬰は人が持つ裕福と欲望には”幅”があるという独特の表現をして、それを越えてまで富を求めてはならないと強く言っている。
ちなみに文中に出てくる慶氏は富や地位を追求した結果、政争に巻き込まれてある者は殺され、ある者は逃亡した。そして、逃亡した先の国での戦争で殺され、ついには滅亡に至った。このような悲惨な結果を招いた一族は沢山登場するが、誰しもが富を求めすぎていた。
君主が領地を与えようとするも断る
晏子は貴族階級からついには斉の国の大臣(卿や宰相)となったが、粗末な衣服を着て、玄米食をとり、副食は五個の卵と水草類程度の質素なものであった。これを知った景公の側近の者がこのことを知らせ、景公は田無宇(でんむう)を使いに出して、土地を与えようとした。
晏子は以下のように述べて固辞した。
「わが国のご先祖太公(太公望:斉の始祖)は、初めて営丘の地に領地をいただき、その五百か村を代々世襲して治めてこられました。太公よりあなたまで十数代になりますが、皆が君侯の意のままに領地をいただいていたならば、あなたの代になるまでに人々が斉に大勢やってきて領地を争い受け、今では寸土もなくなっていたでしょう。
私は、その者に徳功があれば禄をいただき、徳功がなけれぼ禄を辞退すべきだと聞いております。おろかな父親が領地をいただき、それを世襲でおろかな子供に与えるようなことをして、君侯の政を失敗させるようなことはできません」
このことで、田桓子(でんかんし)という者が晏子に言った。
「君侯は喜んで君に土地を与えようとしておられるのに、お断りして君侯を不快な思いにさせることではないではないか」
それに対し晏子は次のように言ってまた固辞した。
「私は、『君侯から賜わることを節度をもって受けるものは長く用いられ、生活を質素にして身を慎む者は、世間にその名が広まる』ということを聞いている。君侯から重用され名を挙げるのは、君子のことである。私は、それを望んでいるのだ」
———
暗に自分に徳功はないことを伝え、身を引いているその様に尊敬せざるを得ない。私なら確実に貰っている気がする。
ちなみに宮城谷昌光は太公望も小説化している。いつか読んでみたい。
呂尚 - Wikipedia
- 作者:昌光, 宮城谷
- 発売日: 2001/04/10
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善を師として「清貧」を貫く
晏子が斉の大臣となって僅か3年で政治は公平に行なわれるようになり、市民はそれを喜んでいた。
恵公の近臣である梁丘拠(りょうきゅうきょ)が所用で晏子を尋ねた時、ちょうど食事中であったがその食物の中に肉の姿が見えなかった(※この時代、肉は高級品だった)ので、帰ってからそのことを景公に伝えた。景公は翌朝、晏子を召して、ゆたかな都昌の土地を与えると告げた。
晏子はこれを断っていった。
「富裕になっても心驕らない人というのは、私はまだ聞いたことがありません。貧しくても苦にしないのは、善を行動の基準として従っているからであります。いま、都昌の土地を頂いて富裕になりますと、驕って道義を軽んじ、富裕を師としてこれに従うことになりますが、私は善を師とすることを変えることはできませんので、ご辞退申し上げるわけであります。どうかお許し下さい」
またある日、晏子が食事をしようとしている時に、景公の使者が来たので、それを分けて使者にも食事を出したが、使者も満腹せず、晏子も充分ではなかった。使者は帰ってからこのことを景公に告げた。景公は「ああ、晏子の家はそのように貧乏しているのか。それを知らなかったのは自分の罪だ」として、千金と税金とを届けさせ、これからは臣下としてではなく、實客として優遇したいと告げさせた。晏子はこれを断ったが、三度も重ねて薦められたので、丁重に申し上げた。
「私の家は決して貧乏ではありません。君侯からいただく俸禄をもって、父母、兄弟、妻子の三族がうるおっており、さらにそれは友人にも及び、自分の領地の人民にも施すことができております。俸禄は充分で、決して貧しいことはありません。
私は次のように聞いております。
たくさん俸禄を貰って、それを自分の領地の民に施すのは、臣下が君に代わって人民の君主になることで、忠臣というものはしないものです。たくさんに俸禄を貰ってそれを人民に施さないのは、かごの中にためこんだ貯え(筐篋(きょうきょう)の蔵)といって、仁人といわれる人はいたしません。俸禄をいただきながら人に施さずに人から怨まれ、死ぬと他人から財産を奪われるようなのを、主人の財をとりこんだ貯え(宰蔵)といって、智者はいたしません。粗衣粗食であっても、飢え凍えを免れれば充分であります」
そこで景公は、さらに晏子に告げた。
「わが先君の桓公が功臣の管仲に、五百か村の領地を与えた時に、管仲は受け取っているじゃないか。おまえはなぜ受け取ってくれないのか」
晏子は次のように答えた。
「私は次のように聞いております。聖人といえども千にーつの間違いはありますし、おろかものにも千にーつぐらいは正しいことをやるということを。きっと管仲ほどの人でも、それは千慮のー失で、私のは千慮のー得とも申すべきものでしょう。どうか、これだけはお許し願います」
———
管仲とは晏子と同じく斉の名宰相と言われており、晏子と並んで評されている賢人である。管仲が領土を受け取ったことを晏子は賢人が行う千慮の一失と答え、自分は管仲に並び立たない愚か者(千慮の一得)と、あくまで謙虚に辞退している。
ちなみに宮城谷昌光は管仲も小説化している。こっちもいつか読んでみたい。
管仲 - Wikipedia
- 作者:宮城谷 昌光
- 発売日: 2006/07/07
- メディア: 文庫
吝・嗇・愛について語る
晏子は使者として晋に向かった際、晋の名臣である叔向(しゅくきょう)と会談を行なっている。
叔向が裔と吝と愛の行ないの差についてたずねた。
「嗇は君子の道で、吝と愛とは小人の行ないといえましょう」
「それはどういう意味でしょうか」
「財物の多い少ないを計算して乱費を遊け、富んでも財物をいたずらに蓄えることなく貧しい人に分ち与え、貧しくても財物の助けを人から借りないのを嗇といいます。
財物を積み蓄えても、人に分け与えることをせず、自分だけ贅沢をするのを吝といいます。
人に分け与えることもできず、また自分でそれを使うこともできず、無駄にしてしまうことを愛といいます。
同じくものを惜しむことでもこれだけの違いがあり、嗇は君子の道で、吝と愛とは小人の行ないと言わねばなりません」
———
晏子曰く、財産の使い方によって賢人と小人に分けられるのだとか。これは現代でも適応できる考え方であろう。
ちなみに叔向もこの時代において屈指の賢人と言われており、このエピソードの他にも晏嬰と互いの国の将来を憂えていたり(いわゆる愚痴である)して面白い。
恵公に君主としてのあるべき姿を説く
恵公は前述した通り言わばクズなので、諸侯の評判は悪く、人民は親しまないので、恵公は心配して晏子にたずねた。
「昔の立派な君主といわれた人は、どのような行いをやっていたのだろう」
「その行いは公正であり、よこしまなことがないので、讒言(ざんげん)の入り込む隙がありません。
一部の者に調子を合わせて派閥をつくったり側近の者に偏執したりしないので、多くの言葉巧みな者が取り入ることができません。
自分の所得を少なくして人民の所得を増やすようにするので、税の取り立て人が働くことがありません。
大国の土地をかすめとったり、小国の人民を減らすような圧迫を加えないので、諸侯は、その君侯がますます尊敬されることを希望します。
兵力で人を脅かしたり、多人数の暴力で人を威圧したりしないので、天下の人は皆その君侯がますます強くなることを飲迎します。
その徳行や教訓は諸侯に影響を及ぼし、その慈愛や恩恵は国民の上に注がれます。ですから、天下がその君侯に服しますことは、水の低きに流れるように目然のなりゆきであります。
それに反して国運の衰える時の君主は、行ないは公正でなく、好みにあう者を集めて側近につけるので、そしりやへつらいの者が多く集まり、その出入りが激しくなります。
自分だけが栄華をつくし人民のことを考えないので、税の取り立て人が忙しくなります。大国の土地をかすめとったり小国の人民をヘらすようなことをするので、諸侯はその君侯が尊敬されることを望みません。
人を兵力で脅かしたり、多数の暴力で人を威圧したりするので、天下中その君侯が強くなることを歓迎しません。
災厄を諸侯にかけ、いろいろな労苦を国に加えるので、敵国が進入してきても誰も動けず、重臣や貴族は離散してしまい、国民は味方しないのです」
恵公は言った。
「それじゃ、どうすればいいのだ」
晏子は言った。
「どうか言葉、応接を丁寧にし、進物を多くして、諸侯に対しては積極的に友好を結びましょう。罪を軽くし、仕事を少なくして、人民に今までのことを謝るようにしましょう。そうすればよくなると思いますが、構いませんか」
「よろしい。そうしてくれ」
そこで晏子は、諸侯に対して言葉、応接を丁寧にし、進物を多くして礼を尽くしたので諸侯は随従するようになり、罪を軽くし仕事を少なくしたので、国民は親しむようになった。小国の使者は参内し、燕や魯の大国でさえ貢ぎ物を届けるようになった。
このことについて、墨子(思想家)は次のようにいっている。
「晏子は、道というものを知っている。
人のためにはかれば道にかない、自分のためにはかれば道を失うようになる。人のために行うものは重んぜられ、自分のために行うものは軽んぜられる。恵公は自分のためにはかって国民に背かれ、人のためにはかって諸侯が恵公のために働くようになった。
すなわち、道というものは人のためにすることにあり、人間の行いは自分の利欲の心を抑えることにあるのである。
だから、そのことを教えた晏子は、道を知っていると言える」
またある時、景公は晏子にたずねた。
「昔の立派な徳をそなえている君主の行いは、どんなものであったろうか」
「収入は自分を少なくして国民に多く、利益は自分は控えめにして世の中広く渡るようにしました。
その人が上におりますと、政を公明にして、正しい教えは行なわれるようになり、天下を威圧するような必要はありませんでした。
その税の取り立てにおいても、実情を調ベ、貧富の差がないように努め、その金を趣味嗜好に使うようなことはありませんでした。
処罰はその地位によって差別をつけず、賞誉は身分の貧賤に関係なく与えました。
楽しいことに溺れず、悲しいことがあっても仕事を粗略にすることはありませんでした。
智力を傾けて民を教導しても威張るようなことはなく、年中力一杯働きながら、人にそれを求めることをしませんでした。
政治は皆がよくなることを目的とするので、下の者はお互いに傷つけあうことをしなくなります。
教育は皆が愛し合うことを目的とするので、国民は憎みあうことがなくなります。
刑罰は法に則り、廃したり罪にしたりすることは民意に納得できるものであります。
そこで、賢人が上におっても窮屈でうるさいことはなく、不敏の者が下におっても怨みがましいことは起きてきません。
天下国家の中で、国民の考え方や欲望が同じであることは、家の中と同じようであり、生活態度がそのまま教えとなるようなことが、立派な徳を備えている君主の行ないであります」
景公が黙っているので、晏子がさらにいった。
「私は次のように聞いております。
人の道をたずねる者は心を厳しくし、人の道を聞く者は態度を厳しくすべきであると。
いまあなたの徴税が重いため、民心は離れています。商売の道は乱れていますので、商人が集まってきません。珍らしい遊びごとが多いので、人民の貯えはなくなっています。植悪が政治にたまり、怨みごとが国民にたまっています。私利私欲が君侯の側に満ちて、恨みごとが国中に満ちています。
それでもあなたは、心を厳しくしてそのことを考えようとなさらないのですか」
景公はわかったといって、その後、珍らしい遊びごとを制限し、市場の物価を公正にし、宮室を華美にせず、土木事業を起こさず、夫役(強制労働)をやめ、税を軽くし、上下心をーつにして努力したので、国民は非常に親しむようになった。
———
国の、そして国を治める者としてのあるべき姿を見事に論じている。そしてそれを恵公に納得させ、治世に導いたのである。
私はこういったエピソードを読むにつれ、素直な恵公がだんだんと可愛く見えてきた。が、結局最後まで何度も晏子に諫言される日々を送っていた。とはいえ国が乱れず繁栄したのは、晏子と恵公が二人三脚で努力した結果だろうとも思える。
恵公の賜りを断る
晏子が参内する時、古び破れた車にやせ馬をつけてやってきたのを見て、景公がいった。
「ああ、おまえの俸禄はそんなに少ないのか、ずいぶん酷い乗り物にのって...」
晏子は答えた。
「私はあなたから賜っている俸禄によって、父、母、妻の三族が食べることができ、多くの友人が生きることができ、私は充分に衣食足りております。破れた車でも、やせ馬でも、役に立てば、それで充分でございます」
晏子が退去すると、景公は早速近臣の梁丘拠に命じて、大きな立派な車と良馬を届けさせた。しかし、晏子はこれを辞退し、三度もそれをくり返したので、景公はしびれをきらして晏子を呼び出した。
「お前があの車に乗らなければ、自分も車には乗らないことにする。どうしてそのように固辞するのだ」
「あなたは私に政治を任せておられますが、私は衣服飲食の支出を節約して国民の模範になろうと思っています。それでも知らぬうちに贅沢になっていないか、反省が足りないのではないかと心配しています。いま立派な車と良馬に君侯が乗られるだけでなく、私までが同じようなことをすれば、人民は筋が通らないといって、衣服飲食が贅沢になり、その行為を反省しない者も出て参りましよう。私はそれを禁ずることができなくなります」
またある時恵公が、晏子に狐の白裘(はくきゅう:腋の下の白毛でつくった高価なもの)と玄豹の色の美しい毛皮の服を贈ったが、その値段は千金もするものであった。寵臣の梁丘拠に届けさせたが、晏子はこれを受けず、三度もーり返したので、景公がいった。
「自分は同じものを持っているので着たいと思うが、お前が受けとらなければ、私も着ないことにする。こんなものをただしまっておくより着古したほういいじゃないのか」
「私はあなたから俸禄をいただき、役人を指揮して政治をやらせていただいておりますが、あなたがこの高価な服をおつけになって、私までがそれを身につけることになりますと、贅沢をさせないようにしている国民のお手本になりません。それでは政治が崩れてしまいます」と言って、絶対に受け取らなかった。
さらにある時、宰相の晏子が、士の位の者と同じような質素な服で参内してきたので、恵公が言った。
「おまえの家はそんなに貧しいのか。随分ひどい服じゃないか。それに気がつかなかったのは自分の罪である。許してくれ」
「私は次のように聞いております。『充分人の面倒を見た上での食道楽、着道楽なら、多少行き過ぎても悪いことはない。充分人の面倒を見た上のことであれば、多少の悪癖も大目に見られる』と。私は愚か者でありますが、私のー族で私以上の者は見当たらず、私の世話で先祖の祭りをつづけている者が五百家族あります。私がその上でこの衣服をつけて参内することができますのは、結構すぎることではありませんか」
———
最初の2つの話はどちらも三度断ると恵公が必ず物申してくるという、逸話にありがちな話になっているかもしれない。それほどまでに晏嬰が清貧を貫いていたということであろう。
また、毎度のごとく恵公が晏子の粗末な姿に驚いており、恵公はどんだけバカなんだと突っ込みたくなるだろうが、こちらも晏子の清貧さを表現するために、恵公に何度もバカを演じさせているようにも捉えられる。
老いを理由に領地を返上しようとする
晏子は長く景公の大臣をしていたが、年老いたことを理由に、領地を返上したいと言ってきたので、恵公は言った。
「わが先君定公から自分の代まで、代々世を襲いで国を治めてきているが、斉の国の重臣で、年老いたからといって、その領地を返上してきた者はない。いま、おまえがひとりそれをやろうとするのは、国の昔からのしきたりを破り、自分を見捨てようとしていることだ。絶対に許さないぞ」
「私は次のように聞いております。『昔、君侯に仕える者は、わが身の才徳にかなった禄を頂く。すなわち、才徳があれば禄をいただき、才徳がなければ禄をお返しする』と。才徳があって禄をいただくのは、君徳を明らかにすることであり、才徳がない時に禄をお返しするのは、臣下の志をいさぎよくすることであります。私は年老いて才徳もうすくなり、仕事もできなくなりました。これで高い俸禄をいただいているのは、上の明徳をけがし、下の志ある行ないをけがすものであります。いただいているわけには参りません」
景公は、これを許さずにさらにいった。
「昔、わが先君の桓公は、宰相として自分を助け、諸侯の覇とならせた管仲をいたわり、年老いてからも、これを賞して三帰の地を与え、その恩恵を子孫にまで及ばせようとした。おまえも、管仲と同じように、自分の宰相であり功績があるのだから、それに土地を与え子孫にまで恩恵を及ぼさせてもよいではないか」
晏嬰はこう言った。
「昔、管仲が桓公に仕えた時には、桓公の名徳義は諸侯の間で高く評価され、その徳政は国民にあまねく及んでいました。いま私はあなたにお仕えしておりますが、国威は漸く諸侯と並ぶに過ぎず、国民の間には怨みがつもりたまっています。それは私がいたらないからで、私の罪であります。それなのに、あなたが私を賞されようとされるのは、おろかな父親がおろかな予孫に土地を残すことになり、国民とともに歩むべき道すじを破ることになります。それに才徳がないのに高禄をいただき智才がないのに家がゆたかであるのは、恥を晒し、教えに逆らうもので、お受けするわけには参りません」
しかし恵公は許さなかった。そこで晏子は、他日宮廷に出向いた時、隙を見て手続きをし、車一台分の土地を返上して、その趣旨を明らかにしたという。
———
今の経営者や政治家、位の高い人の多くはその地位の高さに踏みとどまろうと試行錯誤しているが、それは昔も同じであったのだろう。それなのに晏子は、自らの財産まで返上しようとするのだから、いかに謙虚に清貧を貫いたのかが分かる。
いまの時代こそ、晏子を見習いたい
2000年以上前の春秋時代と比べると、現代は相当豊かにはなっているが、晏子の思想や諫言は一切古びていない。
それどころか、晏子が危惧し諌めなければならない状態が今の日本、ひいては世界に蔓延っているのではないだろうか。
だからこそ晏子の生き様は私に深く影響を与えたし、いまこうしてブログに書かせて頂いているのである。晏子が貫いた「清貧」さは、今わたしが最も見習いたい作法であると共に、「清貧」という言葉が多くの人に届いて欲しいとも思っている。
また、晏子のように国を思い、現代の君主に対し諫言できる者が誕生することを、心から願うばかりである。
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「Rewindあの日」が恋しいな。
「Rewindあの日」は、2017年に出た乃木坂46の3rdアルバム『生まれてから初めて見た夢』の初回仕様限定盤 Type-Aにしか入っていない曲である。
メンバーは西野七瀬・桜井玲香・若月佑美の3人(全員卒業した)。MVは無い。作って欲しかった。
私はというと、アルバム全曲聴いてますなんて人ではなかったため、当然この「Rewindあの日」は知らなかった。で、去年初めてライブに行った時(神宮・秩父宮のシンクロのやつ)に初めて聞いた。最初はこのトリオの意味合いがよく分からなかったけど、3人とも1994年生まれだったのね。2019年9月を以って3人全員が卒業したため、いま思えば大変貴重なライブだったと言える。もっと噛み締めて聴いておくべきだった。
時を経て若月佑美が卒業してしまい、西野七瀬も卒業してしまい、ついに桜井玲香まで卒業してしまった。もはやメンバーが誰もいない伝説の曲になってしまった。若月の卒業コンサードは西野七瀬の代わりとして山下美月が入ってたけど、今回の桜井玲香卒業コンサートでは歌われたのかな?
何が良いかって、3人の衣装が全員ものすごくお似合いで、それだけで見る価値があったように思える。
ところで、「他の星から」メンバーも、ついに井上小百合と中田花奈しか残っていない状況になった。うーん辛い。いよいよ1期生が残り少なくなってきたのか。どおりでOGメンバーが強いわけである。
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オールスター感がすごい。局アナが2人もいるのすごい。
宮城谷昌光『晏子』が最高に面白い。あらすじと感想。
宮城谷昌光作品の中でも傑作と言われる小説『晏子(あんし)』が非常に面白く、終章まで一気に読み切ってしまったのでご紹介したい。
もともとはというと、はてなの読者さんからコメントで『晏子春秋』をオススメされたので早速読んでみようかと思っていたのだが、日本語の文献が少なく、かつ買おうと思うとあまりに高価で、その上近所の図書館にも無い。しかしながら漢文もろくに読めない私がいきなり『晏子春秋』に手をつけるのは若干気が引けた気もしており、さてどうしようかと思っていたところ、なんと小説家の宮城谷昌光さんが「晏子」を書いていることを知った。
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宮城谷昌光ヴァージンだった私だが、早速手に取ってみたが、後々調べてみると著者の中でも屈指の傑作らしい。で、その評判通りの面白さに圧倒させられた私がいた。
晏子とは
晏子とは中国春秋時代の斉の政治家、「晏嬰(あんえい)」のことをいう。小説では若い頃から天才と噂され、ついには斉の宰相(政治のトップ、日本でいう総理大臣)まで上り詰め、斉の繁栄に大いに貢献した。
この晏嬰、人気漫画『キングダム』(戦国時代)の一つ前の時代で、紀元前6世紀ごろに活躍した人物であるが、日本人のほとんどは知らないだろう。私もそもそも学生時代は三国志の人物(三國無双にハマったから)と始皇帝くらいしか知らなかったし、晏子についてはそれこそはてなの読者さんによって初めて耳にした人物であった。
ただ以前に読んだ以下の本にちょっぴり登場していた、のを後で思い出した。
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また、論語にも少しだけ登場していたりする。実は晏子、孔子と同じ時代に生きた人で、何度かあって話をしているし、「晏子」や「論語」を見るに、お互いに尊敬しあっていたことが伺える。
彼はこの時代では一、二を争う名宰相と評されており、実は有名な四字熟語「羊頭狗肉」の生みの親でもあり、そのエピソードは『晏子』でも描かれている。司馬遷の『史記』においてもおなじく斉の名宰相である管仲と並んで評され、「管晏列伝」(管仲と晏嬰)として書かれている。
晏子春秋とは
『晏子春秋』とは、晏嬰の死後に彼を評した人々がその言行録をまとめたものであると言われている。内篇(六篇)と外篇(ニ篇)、およそ215章からなる戦国時代から秦朝末期の間に編纂されたらしい。
後の時代になってもその名前が残り、彼を尊敬した人たちが揃って言行録の作成に着手したと見る限り、相当な人格者で、かつ素晴らしい政治家だったのだろう。
日本語の文献は少なく、Amazonで買えるものとしたら以下だろうか。高い。。
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ただし私の近所の図書館には以下が保存されていたので、早速読ませていただいている。
宮城谷昌光による『晏子』
強国晋を中心に大小いくつもの国が乱立した古代中国春秋期。気儘な君公に奸佞驕慢な高官たちが群れ従う斉の政情下、ただ一人晏弱のみは廟中にあっては毅然として礼を実践し、戦下においては稀代の智謀を揮った。緊迫する国際関係、宿敵晋との激突、血ぬられた政変……。度重なる苦境に晏弱はどう対処するのか。斉の存亡の危機を救った晏子父子の波瀾の生涯を描く歴史巨編、待望の文庫化。
- 『晏子(一)』より
さてその晏子を描いたのが小説家・宮城谷昌光さんで、これが著者作品の中でも傑作と評されている。
小説は『晏子春秋』はもちろんのこと、『史記』『春秋左氏伝』から引用して忠実に創り上げられており、オリジナル人物は登場せず、すべて史実に基づいた人物となっている。
ただし作中では晏嬰の父である晏弱(あんじゃく)も主人公の一人として描かれており、晏弱・晏嬰ともに晏子として世間から評されているようになっている。
したがって、前半パートは晏弱が中心で、晏嬰も生まれていない。中盤に差し掛かるところでようやく晏嬰が生誕し、徐々に成長していく過程まで描かれている。『晏子』とは晏弱・晏嬰による晏子父子の物語なのである。
さてもともと晏家は武勇の一族ということもあってか、晏弱は名武将としても評されており、将軍としての合戦なども登場する。それもあって、身長が160cmにも満たない晏嬰には一族としてさぞ心配されていた。が、最終的には賢人とまで評されるから、それまでの過程がまた面白い。
宮城谷昌光『晏子』の感想
宮城谷昌光さんの小説は初めてであったが、これほど面白いとは。時に小説とは「早く読み終わりたい」「早く結末が知りたい」などと思ってしまうが、『晏子』については真逆であった。「晏弱、死なないで」という思いが度々私の頭の中を駆け巡った。それくらい、私は晏弱が好きになった。
晏嬰パパと、蔡朝・南郭偃
前半パートは晏嬰パパの晏弱と、彼に心酔している蔡朝・南郭偃という2人の大夫(日本でいう貴族)の3人を中心にして描かれている。私はこの3人が本当に好きだった。
晏嬰も、もちろん大好きになったが、それよりも晏嬰パパの方が気に入ってしまった。この2人、父子でありながらそれぞれ全くタイプの異なる能力・考え方を持っており、それが一層晏嬰パパを気に入らせたのだと思われる。
晏嬰は名宰相である通り、何事に対しても、たとえ君主に対してでも臆することなく
物申す。そのうえ、きっぱりと隔たりなく諫言する。晏嬰が最後に仕えた恵公は全くの能無し君主(いわゆるクズ)であったが、晏嬰の諫言に対してキレずに(時々怒鳴っているけど、最終的には持ち堪えている)対応できたのは素晴らしいことだと思う。もし私が君主で、彼のような天才にズバッと言われると、凹むかキレるかのどっちかであろう。
小説内でも語られているが、諫言(上の位の者に対して諌める言葉を発すること)は非常に勇気がいることで、かつ上を怒らせることが多くなる。この時代の君主は絶対的な権力を握っており、一度君主を怒らせると、時には一族もろとも抹殺されるような、あまりに恐ろしい時代なのである。だからこそ諫言とはそう簡単にできるものではない。私のような能無しかつ臆病者には(そもそも大臣などになれないが)到底できることではない。
そのような恐ろしき諫言を、晏嬰は平気でやってしまう。現代の大半の政治家にも見習って欲しいくらい、見事であった。
対して晏嬰パパはというと、これまた見事であった。で、彼の好きなところは、私のような能無しに対しても分かりやすく、かつ怒らせないよう和らげて、遠回しに申しているところだ。晏嬰とは全く異なる言い方だが、これもまた賢さと勇気が伴わないとできない所業である。
さらに言えば、晏嬰は周りに対する配慮も素晴らしく、部下を気遣い、たとえライバルや敵であろうと敬い、約束は守り、受けた恩はきちんと返す。彼の一言一句、一つ一つのエピソードの中に優しさが、彼の人間としての素晴らしさが垣間みえて、私も蔡朝・南郭偃と共に心酔してしまったのである。
本書の最初の回は、大国・晋(当時、大国で二大強国の一国だった)が開いた会盟への参加であった。この会盟への参加前に、斉は晋国の郤克(げきこく)という将軍を激怒させており、それをきっかけに郤克は晋に訪れる使者を殺害することを目論んでいた。それを知った晏弱の上司はあっさりと自国に逃げ帰ってしまい、代わりに晏弱が務めて一行と晋に向かったのである。ここで晏弱は持ち前の胆力と知性を存分に発揮し、仲間を無事に斉に戻し、自らも捕虜となりながら最終的には無事に帰国したのであった。
このエピソードひとつで、晏嬰パパの部下と、読者である私とを感銘に浸らせた宮城谷昌光さんの文体が見事すぎるのだが、とにかくこれだけで私は晏嬰パパが大好きになった。
その後、晏嬰パパは小国である「莱(らい)」を少ない兵士で滅ぼしたりと、とんでもない離れ業を成し遂げてしまう。この時も「自国・敵国問わず決して多くの人々を殺めない」という精神のもと、考えに考えた計略を用いて攻略するのだが、晏嬰パパのその人としての優しさに、大いに感動してしまった。
そんな晏嬰パパの最期は見届けたくなかったし、ついに逝ってしまった時は、涙を流さずにはいられなかった。
晏嬰の清貧さ
晏弱が亡くなり、蔡朝・南郭偃も引退して表舞台から退場し、かなり寂しくなったのは言うまでもない。が、ここからの晏嬰の活躍は目まぐるしく、それが寂しさを和らげてくれた。
といっても最初は晏嬰があまり登場することはなく、中盤は戦争や謀略で埋め尽くされている。で、結局人間性のない人たちは誰しもが悲惨な死を迎えるのであるから、それを読むだけで、共に病死だった晏子父子は偉大だなあと感慨深くなるものである。
晏嬰の凄さは、私が非常に気になっている言葉・思想である「清貧」を、見事に体現している点であろう。
彼は貴族、後に首相という位までに上り詰めておきながら、その生活は常に質素で、家はボロく服装も貧相で、食事は最低限で肉も食わず(当時、肉は高級品だった)、褒賞もろくに受け取らなかった。
景公はしきりに彼に領地や俸禄を与えようとするのだが、その度に晏嬰は断り、またその理由も明確であった。また、恵公が晏嬰のボロい家を見かねて彼の留守中に新しい家を建ててやったのだが、帰ってきた途端それを壊して元の居住者に土地を返すように部下に命じた。引退前、彼は自分に与えられていた領地を返上しようとした。晏嬰は清貧を貫き通して逝き、それが彼の名声に繋がったのだろう。
高い地位につきながら、市民同様の生活をする彼に、私は尊敬せざるを得なかった。孔子は「富を持って奢らないことより、貧乏であるが僻まない方が難しい」*1と言っているが、富を持ちながら清貧を維持するのは相当難しいように思えてならない。私なんかが富を持ったら、恵公のように平気で散財に明け暮れそうである。
これら、晏嬰の清貧さについては極めて感銘を受けたので、別途記事に書いてまとめてみたいと思う。
トンチャイ・メーキンタイ『ラオ・マー・シング(เรามา Sing)』が癖になる。
タイの歌手であるトンチャイ・メーキンタイさんの『ラオ・マー・シング(เรามา Sing)』が癖になり、聴き続けてしまう魔力にハマってしまったので紹介したい。サビ部分がポップで軽快で、誰でもノリノリになれる。
トンチャイ・メーキンタイさんについて
このトンチャイ・メーキンタイ(ธงไชย แมคอินไตย์)さん、愛称はBird(バード)で、เบิร์ดBird(P'Bird:バード兄さん)、バード・トンチャイなどと呼ばれているのだとか。
タイでは相当な有名人らしく、国民的スターらしい。日本でいう中居くんや福山雅治に匹敵する人気度なのだろう。それがYouTubeという画期的なテクノロジーにより、ついに日本人にも知れ渡った。
2011年の東日本大震災時には「明日のために(เบิร์ด ธงไชย แมคอินไตย์)」を発表。途中で日本語の歌詞も入っており、そのうえ流暢である。この曲を通して日本の被災者に向けエールを送り、さらにタイ国内で「Thai F♥r Japan」というチャリティー活動を行い、募金活動という面でも日本を支援してくれた、素晴らしい人格者であることがわかった。
2013年には北海道での「さっぽろ雪まつり」に日・タイ友好親善大使として来日した。数少ない日本語のウェブサイトを見るに、大変な親日家であるらしいから嬉しい。
日本で広がるラオ・マー・シング
さて冒頭の動画である『ラオ・マー・シング(เรามา Sing)』であるが、日本の方面で使用されており、徐々にその知名度が上昇している。
Berryz工房が日本語カバー楽曲を制作
本家の動画が2011年にアップされたのち、2012年、早速アイドルグループ『Berryz工房』がラオ・マー・シングを日本語でカバーし(『cha cha SING』)、話題となった。
Berryz工房はこの他にもトンチャイ・メーキンタイさんの楽曲をカバーしているので、相当親密な関係らしい。
コンサドーレ札幌・チャナティップ選手のチャントに
2017年、トンチャイ・メーキンタイさんが訪れた北海道にもう一人のタイ人スターが上陸した。チャナティップ・ソングラシン(ชนาธิป สรงกระสินธ์)である。
2018年、彼の所属するコンサドーレ札幌のサポーターによりラオ・マー・シングを原曲にしたチャナティップのチャント(応援歌)が披露された。
さてこの年のチャナティップの活躍は著しく、ついにはコンサドーレ札幌史上最高順位である第4位でシーズンを終了するまでに至った。チャナティップもまた人格者で、タイ、そして札幌でも大スターとなっている。私もコンサドーレ札幌ファンの1人なので、この活躍はものすごく嬉しかった。
乃木坂46・高山一実がラオ・マー・シングを完コピ
2017年に、女性アイドルグループ「乃木坂46」がタイ国政府観光庁の委嘱を受け、日本における「タイ観光大使」に公式的に就任した。
乃木坂46がタイ観光大使に就任! ...|ニュース|乃木坂46公式サイト
それを受けて、乃木坂46の冠番組である「乃木坂工事中」内にて、メンバーの高山一実がラオ・マー・シングを完コピして話題になった。
このあと観光大使としてタイに出向き、タクシー内でラオ・マー・シングを披露しドライバーのおじちゃんを喜ばせていたのも印象深い。やっぱり誰でも知ってるんだな。
さて、お気付きになったかもしれないが、本家のYouTubeのコメント欄が乃木坂46ファンとBerryz工房ファンとチャナティップファンで溢れているのはこの為である。やけに日本語の多いコメント欄に、タイの人たちは困惑しているに違いない。
ラオ・マー・シング、カラオケで歌ったら(みんな知ってたら)盛り上がりそうだし、知らなくても盛り上がりそう。カラオケ行かないけど。チャ〜チャラチャチャララチャ〜チャラチャチャ♬チャ〜チャラチャチャララチャ〜チャラチャチャ♪
「清貧」豊かな心で自由に生きる思想
「清貧(せいひん)」という言葉があるが、ご存知だろうか。意味は「所有に対する欲望を最小限に制限することで、内的自由を飛躍させようとするもの」であり、状態ではなく思想を表したものである。
清貧はかつて多くの日本人が持っていたとされる思想の一つで、日本人のルーツと言えるものだったのかもしれない。
かくいう私はつい最近までこの「清貧」という言葉を知らなかった。が、「お金儲けは悪なのか」という問いについて解を求めるうち、以下の書籍に巡り合った。
- 作者:中野 孝次
- 発売日: 1996/11/08
- メディア: 文庫
この清貧という思想、清らかで、かつ質素な生活を送っている人、あるいはこれからそのような生活を送りたいと考えている人にはとても良い考え方であると思われる。ぜひ清貧という思想を知り、今一度自分の生き様について考えるきっかけになれば良い。
清貧とは思想である
名声や利益に使われて、心休まる暇もなく、一生を苦しめることこそ愚かである。
財産が多ければ身を守ることが疎かになり難しくなる。害を受け、わずらいを招く中立となるものだ。自分が死んだ後は、財宝を積み上げて北斗七星まで届くほどあったとしても、遺された人にとっては、わずらいとなるに違いない。愚かな人の目を喜ばせる楽しみもまた、つまらないものだ。大きな車、肥えた馬、金の玉飾りも、心ある人はまったく愚かであると見るに違いない。金は山に捨て、玉は淵に投げるべきだ。利益に惑うのは、大変愚かな人である。
いつまでも埋もれない名声を後世に残すことこそ、あるべき理想ではあろうが、位が高く、身分が高い人を必ずしも優れた人と言うべきだろうか。
愚かで駄目な人も、それなりの家に生まれ、よい時節にあえば高い位に登り、奢りを極めることもある。優れていた賢人・聖人が、自ら賤しい位に留まり、時節にあわず死んでしまった例も又多い。ひとえに高い官位を望むのも、(利益に惑うことの)次に愚かなことである。
- 『徒然草』第三十八段より
『徒然草』は14世紀に書かれた書籍で、上記のような考え方は多くの日本人に影響を与え、現代に至っても愛読者の多い古典である。
著者の吉田兼好によると、地位や名声、富に囚われた人は愚者であり、己の心の充実さを求めるこそが最良であるという。このような考え方が日本人に広く行き渡り、共感を得て、これまで日本人の基本的な思想として定着した。
これこそ「清貧」であり、清貧とはその人の状態を表すものではなく、その人の考え方を表すものであることが分かるだろうか。「清貧」とはいわば「所有を必要最低限にすることが精神の活動を自由にする、所有に心奪われていては人間的な心の動きが阻害される」という考えが根底にあり、その思想を持って人々は質素で簡略な生活に慎むことを指す。
「貧乏」との違いについて
「貧乏」は状態であり、思想ではない。これが決定的な違いであろう。
その人がお金や生活に困っていれば、その人は貧乏である。それは清貧ではない。
清貧は思想なのだから、たとえその人がお金持ちで裕福な状態にあったとしても、清貧な思想を持っていることだって有り得る。なので、清貧を貧乏な人と捉えてはならない。
「吝嗇」との違いについて
「吝嗇(りんしょく)」とは言うなれば「ケチ」であり、「守銭奴」とも評される表現であるが、要するにあらゆるものを犠牲にしてでもお金を貯めこもうとする、あるいは守ろうとする行為で有り、「清貧」とは根底の考え方が対立するものである。
吝嗇家は、自分の財産を守りたい、富を築いて裕福な生活をしたい、という考え方が根底にあると思われる。ここが清貧の思想と真っ向から対立している。なので、清貧は吝嗇とは全く異なるものと言える。
「節約」との違いについて
「節約」とは行動やテクニックを指すもので、「無駄を省いて切り詰めること」を言う。したがって、清貧の思想には近い表現になるかもしれない。
ただし、節約家にはこれといった考え方・思想の定義がないので、節約家の目的次第で清貧とも捉えられるし、吝嗇とも捉えられる。
その人が清貧の思想に基づき節約しているかもしれないし、お金を貯め込もうと節約しているのかは、その人の考え方を知る必要があるということだ。
「ミニマリズム(Minimalism)」との違いについて
「ミニマリズム(Minimalism)」も考え方の一つで、「清貧」とかなり近い考え方にあると思われる。が、ミニマリズムが「最小限主義」と言われるように、減らすことそのものに美を追求していたり、単にファッション(装飾的思考)としての考え方もあることから、清貧とは若干異なるように思える。
また、清貧の思想にある人は、自分を清貧家とは名乗らない。これは時代の違い・思想の多様化も背景にあるだろうが、昔の日本人からすれば清貧が当たり前で、わざわざ名乗ることもなかったのだろうと考えられる。
一方で現代は大量生産・消費社会であり、その考え方に相対すべく「ミニマリスト」と名乗る人が出現したと捉えられる。なので、もし吉田兼好が現代に生きていたら、「私はミニマリストだ」と名乗る可能性も、もしかしたら有り得るのかもしれない。
所有欲がもたらす怖さについて
「清貧」とは私も知らない言葉であったように、半ば死後に近い言葉と言えるかもしれない。
その上、残念ながら本書が警鐘しているように、清貧の思想に相対した考え方を持っている人が増えてしまったのもまた事実であろう。現に周りを見渡してみると、金や地位に取り憑かれている人はいくらでも見て取れる。先代の努力による経済の急発展により、辛い生活から逃れたことに我々は感謝せねばならない。が、負の財産もまた大きなものとなっている。
さて一度所有欲に取り憑かれると、その人生は半ば悲惨なものになりかねないと言える。特に現代はと言うとその欲望を掻き立てる商品・広告がある意味世界を支配しているわけで、逃れようにも逃れられない過酷さがある。一度捕われると、精神的にも金銭的にも追い込まれていくことになる。例えやすい例を挙げるなら、住宅ローンはその一種と言えるだろう。
高いものを買うからこそ、それを大切にする、という考え方もあるかもしれないが、むしろ心の自由を奪われているのかもしれない。高いものが身近に有ると、その物に気を奪われ、挙句は「落とすな」「触るな」「汚すな」と、その物により人間関係までもが汚れていくことに繋がりかねない。
清貧は心の豊かさと自由をもたらす
さて、では所有欲を無くし、高価なものや名声に囚われなくなると、どうなるか。
まず、執着心が無くなるであろう。物事や地位に対する執拗な心は、当たり前だが心が汚れていく。執着心は、不健康をもたらす病魔である。それは、確実に無くなるであろう。執着心がなくなれば、嫉妬や羨望も無くなり、次第に心が穏やかになり、豊かになり、清らかになっていくであろう。心がそうなると、次第と生活も落ち着きが芽生え、安らかな毎日が過ごせるであろう。
本書で、ヨーロッパの心理学・哲学者であるエーリッヒ・フロムの有名な著書『生きるということ』の一文が引用されていて、それが面白かったので紹介したい。彼はイギリスの詩人アルフレッド・テニスンと日本の俳人松尾芭蕉の俳句を比較し、欧米文化と日本文化の違いを指摘している。
ひび割れた壁に咲く花よ
私はお前を割れ目から摘み取る
私はお前をこのように、根ごと手に取る
小さな花よ --- もしも私に理解できたら
お前が何であるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを---
その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう
- アルフレッド・テニスン
これに対し、英訳された芭蕉の俳句が以下だ。
眼をこらして見ると
なずなの咲いているのが見える
垣根のそばに!よくみれば なずな花咲く 垣根かな」(日本語原文)
- 松尾芭蕉
この両者の違いについて、エーリッヒ・フロムは以下のように述べた。
この違いは顕著である。テニスンは花に対する反作用として、それを持つことを望んでいる。彼は花を「根ごと」「摘み取る」。そして最後に、神と人間の本性への洞察を得るために花がおそらく果たすであろう機能について、知的な思索にふけるのだが、花自体は彼の花への関心の結果として、生命を奪われる。私たちがこの詩において見るテニスンは、生きものをばらばらにして真実を求める西洋の科学者にたとえられるだろう。
芭蕉の花への反応はまったく異なっている。彼は花を摘むことを望まない。それに手を触れさえしない。彼がすることはただ、それを「見る」ために「眼をこらす」ことだけである。
(中略)
テニスンはどうやら、人びとや自然を理解するために花を所有する必要があるようだ。そして彼が花を持つことによって花は破壊されてしまう。芭蕉が望むのは見ることである。それもただ眺めるだけでなく、それと一体化すること、それと自分自身を<一にする>こと — そして花を生かすこと — である。
- 『生きるということ』より
エーリッヒ・フロムはこの違いを「所有すること」の存在様式と「在ること」の存在様式との違いとして説明しているのだが、この「在ること」の存在様式こそ、まさに清貧を表しているものとなる。
私はたびたび「日常は幸せの中にある」ということを信念として掲げたいとこのブログで宣言しているが、それはまさにこの清貧という思想を根底に置くことで、さらにその境地に達せられるのではないかと、そのように考えている。
清貧思想の言葉
本阿弥妙秀(ほんあみみょうしゅう)
室町・戦国時代の本阿弥家が清貧を体現した例として挙げられている。有名なのは陶芸家・芸術家の本阿弥光悦であろうが、その母親である本阿弥妙秀の方が面白かった。
妙秀(みょうしゅう)本阿弥光悦の母 : Pilgrim 東西南北巡礼記
富貴をのぞんで縁組をしてもろくなことにはならぬ、それは人間関係を損うばかりでなく、人間そのものをダメにする。富貴であることのみをよしとするのは、欲深く鼻の先にばかり知恵のある者に決まっている、と彼女はかねがね若い者たちに言い聞かせていた。
妙秀が最も重んじたのは何よりも人の心のありようであった。たとえ、貧しくとも夫婦のあいだに愛情さえあれば、「いかほど貧しくともたんぬべし」と言った。富貴な家の当主が死んだあと、兄弟の間に醜い争いが起こるのはよくあることだが、貧しい者の死んだあと兄弟が争ったためしはない。人が幸せになるかどうかは富貴か貧乏かによるのではない、ひとえにただ人の心のありようによるのである、ともかねがね言っていた。
彼女は世の中に慳貪(けんどん)な人たちが溢れかえった世を見て、嘆き嫌っていたそうである。慳貪とは欲が深い、貪欲であることを意味しており、自分がよければ他人を構うことはない。そんな人を表すである。残念ながら現代にもそんな人が溢れかえっている気がしてならないが、彼女はついには、他に貧しい者が大勢いる中に自分一人が多くの物を所有することに悪を感じるようになったらしく、大勢の者に自分の所有物を分け与えたのだとか。
良寛
江戸時代の僧侶だった良寛は、生涯を通して寺を構えず、妻子も持たず、粗末な草庵で無一物に徹しながら生活をし、名利に一切とらわれない人生を送ったらしい。
良寛さんの生い立ちとは? 無一物で自由に生きた74年の生涯 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン
あまりに満足感が飽和した時代を生きている我々からすると、良寛の生き方は到底真似できるものではない。が、その清貧の思想からは学べることも非常に多いであろう。
食い物がいくらでも手に入る飽食の時代に、食があること自体を有り難がる気持ちは起こらない。つねに飢餓すれすれの、食のないことが状態であるからこそ、三升の米のあることが有難いのである。
暖房の効いた暖かい部屋がふつうであればそれを特に有り難く思うことはないが、寒気の厳しい外での乞食行から帰って炉に焚くべき一束の薪があれば、その暖に感謝せずにいられない。
ないことが状態であるとき初めて人は物のあることに無上の満足と感謝を覚える。あるのが常ならば、ないことに不満こそ感じても、決して有り難がる心持ちは湧かないであろう。とすれば、身辺をつねに欠乏の状態すれすれに置くことは、それ自体が感謝をもって生きることの工夫であるかもしれないのだ。良寛が草庵の生を選んだのはそういうことであったろうと私は想像する。
我々は当たり前のようにエアコンをつけて寒気を凌ぎ、当たり前のようにたらふく食べる。確かに欠乏して、初めて人は生きていることに感謝するのかもしれない。私も今の無職生活を以って、苦労を覚え、衣食住の有り難さを痛感せねばなるまい。そうすることで、また新しい自分に出会える気がするのである。
吉田兼好
冒頭にて挙げた通り、随筆の古典である『徒然草』の作者である吉田兼好も清貧を説いた一人であろう。
自分が生きていま存在しているという、これに勝る喜びがあろうか。死を憎むなら、その喜びをこそ日々確認し、生を楽しむべきである。
なのに愚かなる人々はこの人間の最高の楽しみを楽しまず、この宝を忘れて、財産だの名声だのというはかない宝ばかりを求め続けているから、心が満ち足りるということだないのだ。生きているあいだに生を楽しまないでいて、いざ死に際して死を恐れるのは道理にも合わぬことではないか。
人がみなこのように本当に生きてある今を楽しまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないのではない、死の近いことを忘れているからに外ならない。
- 『徒然草』第九十三段より
これは死を意識して、死が来ることを自覚して毎日を楽しめという格言であるが、死が遠のいた現代を生きる我々にはさらに難しいことかもしれない。凡人な私はというと、やはり心のどこかで「自分はまだ死なないだろう」という甘い認識があるように思えてならない。
では、「どうすればそのように生きることができるか」について、そのヒントとなるものを吉田兼好は我々に授けてくれている。
スケジュール表に予定をびっしり書き込んで、絶えず忙しく動き回っていないと生きた気がしないような人の気が知れない。わたしに言わせれば、人間は他のことに心を紛らわされず、己れひとり居て心を見つめているのがいいのだ。
世間並みに暮らそうとすれば、心は賭け事とか商談とか出世とか色ごととか、そんな外の塵に自分も心を奪われて惑いやすいし、人との交際を重視すれば、テレビだの新聞だの意見や情報に引き回され、まるで自分が自分でなくなってしまう。たのしく付き合っていたかと思えばすぐ喧嘩し、恨んだり悦んだりして切りがなく、心の平安なぞ望むべくもない。ああすればとか、こうすればと考えて利害の関心から抜け出せない。まるで惑いの上に酔い、酔いの中で夢を見ているようなものだ。だが、世間を忙しく走り回っている人を見ると、事に呆けて肝腎なことを忘れている点ではみな同じである。
だから、まだ真の道は何かを知らずとも、仕事、人間関係、世間体などの諸縁を断ち切って心を安らかにしておくのこそ、生を楽しむ態度だと言うべきである。摩訶止観にも「生活、人事、技能、学問等の諸縁をやめよ」とあるではないか。
- 『徒然草』第七十五段より
世間に振り回されては心の充実は得られないのだから、世間並みの生活から距離をとって己れの心を見つめなさいと、そう言っている。
これもまた凡人には厳しい提言であるが、死を感じたことがある人、もう少し身近なところでいうと、一度でも挫折を味わった人なら、多少なりとも身に沁みるのではないだろうか。私も、休職しそれを克服してから、以前より生きることを実感するようになった。同じような感覚は、実は多くの人の中に秘めているのではないだろうか。それを感じるためには兼好のいう通り、一度自分と向き合うことだろう。
鴨長明
同じく随筆の古典『方丈記』で知られる鴨長明は世を捨て、その名の通り方丈(約三メートル四方の室)の中で生活した。
彼は元々、京都の有名な神社である下鴨神社の神事を統率する禰宜の一族に生まれたこともあり、それなりに裕福であっただろうと推測されるが、地震や大火事など数多くの天変地異を経験し、また家族間の争いにも揉まれた結果、最後は方丈にて生活し、そこにある幸せを見つけた。
顔回(顔淵)
顔回は儒教の始祖である孔子の一番弟子と評された賢人で、彼もまた大変な倹約家であった。
子曰く、賢なるかな回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴょう)の飲、陋巷にあり。人は其の憂いに堪(た)えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。
- 『論語』雍也篇より
顔回は狭くきたない路地(陋巷)に住んでおり、食事は竹のわりご一杯の飯に、ひさごの椀一杯の汁だけという極めて貧乏な暮らしを強いられていたのにも関わらず、彼は少しも苦にしなかった。むしろこれを楽しんで改めようとしないその様に、孔子は感銘してこのように評したのである。
顔回は富の誘惑に負けず貧乏暮らしに満足し、志を曲げずに一生を過ごしたのである。そんな顔回が若くして亡くなった時、孔子は声を上げて泣き続けたという。
我々はどう生きるべきか
本書が世に放たれたのはバブル崩壊の頃であり、たちまちベストセラーとなたそうだ。大きな時代の転換点の中で、人々はこの「清貧」なるものに心打たれ、今一度自分の生き方について考え直したに違いない。
しかしながら、私は平成以降しか知らないが、日本が良くなっていってるとはとても思わない。むしろ悪化を辿っているようにも思えてならない。私がこの社会に変革をもたらすのは難しいし、残念ながら成し得る人格も能力も無い。
ではせめて、世の流れに対して、受動的に流されるのではなく、己れの生き方を見定めて確固不抜の信念のもと、納得のいく人生を歩むことはできるのではないか。
現代は、日本人が生まれて初めて「過剰の時代」を生きる事になった転換点でもある。そして、その虚しさを身を以て体験することになるであろう。もう存分に味わった者もいるであろう。だからこそ、「清貧」に対して非常に受け入れ易い精神が備わっているのでは無いだろうか。少なくとも私は「清貧」について、とても良い印象を持った。
さらにいうと、この「清貧」という思想は、ますます混迷するであろう国際社会を生き抜くにあたり、極めて大切な考え方になるのではないだろうか。もっと言えば、この思想こそが、日本人の誇りとして、諸外国へ発信すべき文化なのではないだろうかと、そう思った次第である。
- 作者:中野 孝次
- 発売日: 1996/11/08
- メディア: 文庫
ところで私はここにきて、失恋の鬱憤を晴らすべく、躊躇なく多くの嗜好品に手を出した自分に酷く後悔した。なり振り構わず、あらゆる物質を手に入れようとした自分を酷く戒めた。"人生は足し算では無いのだ"。
反省して、新しい自分に出会う事にしたい。
『国富論』の本質、『見えざる手』の誤解
『国富論』で有名な経済学者のアダム・スミス。日本では『国富論』にある有名な「見えざる手」を、「たとえ自己の利益を追求しようとも、そういった行為は最終的に社会全体に利益をもたらす」などと言った意味で捉えられているように思える。
これは決して誤りではないのだが、『国富論』より前に出版された『道徳感情論』によって示された人間や社会の観点を前提として、改めて『国富論』を読むと、その捉え方が大いに覆される。それこそがアダム・スミスの真の主張と呼べるのではないか、という仮説を持って彼の思想を再構築しようとした書籍が以下である。
アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
- 作者:堂目 卓生
- 発売日: 2008/03/01
- メディア: 新書
今回はこの書を通してアダム・スミスの2つの書籍から思想を学び、私が個人的に設けている「お金儲けは悪なのか」という命題のヒントを得たいと思う。
『道徳感情論』と『国富論』
どちらもアダム・スミスの彼自身が出版した書物であるが、先に出版されたのが『道徳感情論』であり、初版は1759年。一方の『国富論』はそれから17年も先の1776年である。
アダム・スミスは経済学者として認知されているだろうが、元々は道徳哲学者として大学で講義をしており、そこで『道徳感情論』の執筆に取り組んだ。
本書では、社会秩序を導く人間本性は何なのかを明らかにすべく書いたものとなっている。我々は法律を作り、それらを以って社会を形成し、それにより安心・安全な生活を送ることができる。では、人間のどのような性質がそのような法を作らせ、守らせているのか。その問題に取り組んだのが『道徳感情論』である。
『国富論』と『見えざる手』
改めて有名な『国富論』と『見えざる手』についても振り返っておきたい。
各人が社会全体の利益のために努力しようと考えているわけではないし、自分の努力がどれほど社会のためになっているかを知っているわけでもない。
外国の労働よりも自国の労働を支えるのを選ぶのは、自分が安全に利益をあげられるようにするためにすぎない。生産物の価値がもっとも高くなるように労働を振り向けるのは、自分の利益を増やすことを意図しているからにすぎない。
だがそれによって、その他の多くと同じように、見えざる手に導かれて、自分がまったく意図していなかった目的を達成する動きを促進することになる。
- 『国富論』より
企業や個人は、別に「社会のため」「国のため」といった動機で利益を得ようとせずとも、市場機構が人智を超えた力(見えざる手)により調整してくれるというのである。
つまるところ、利己心によってお金儲けを企み実行しても、それが結果的に社会全体が富むことになり、経済も発展する、というものである。
したがって、政府による市場への規制は撤廃し、競争を促進させ経済成長率を高め、豊かで強い国を作るべきだ。というのが『国富論』での大まかな主張であり、経済学では聖典として扱われるようになった。
ルールさえ守ればそれで良いのか
これ自体はその通りかもしれないし、経済学に詳しくない私自身が何かを言えるわけではない。しかしながら、だからと言って「金儲け」などといった利己心むき出して市場に参加するのはいかがなものか、というのが私個人の思いであり、だからこそ『国富論』の前提となる『道徳感情論』についても知っておきたいと思った次第である。
法さえ守れば良いのか。少なくともルールさせ守れば、自己の利益を追求すれば良いし、他人のミスにつけ込んでも良いし、人を騙して商売して良いものなのか。
その答えを出しているのが『道徳感情論』であり、答えはもちろん「否」である。
では以下より、『道徳感情論』のポイントを要約して見ていきたい。
『道徳感情論』から学ぶ、人間性について
- 作者:アダム・スミス
- 発売日: 2013/06/11
- メディア: 文庫
人間には「同感」という能力がある。
人間は他人の感情や言動に関心を持ち、「同感」する能力を持っている。というのがアダム・スミスが立てた仮説であり、これを前提に問題に取り組んでいる。
「同感」とは我々がよく耳にする「共感」のようなものだろう。他人の言動を見て察して、それが自分にとって良い行いのものであれば賞賛し、悪い行いであれば非難する。
さらに人格が発達してくると、我々は自身の中に「公平な観察者」を形成し、これに意見を問うようになる。つまり、他人の言動を目にした時、自身の「公平な観察者」が、自身が他人と同じ場面に遭遇した場合はどのように感じるだろうか、どのように行動するだろうかを考える。そして是認するか、否認するか、自身の感情に答えを与える。
これは自身の成長とともに発達し、次第に「公平な観察者」に従い、冷静に判断、判決を下すようになるという。
また、自分の言動がその「公平な観察者」から賞賛されるもの、あるいは少なくとも非難はされないように努力をするのだと言う。
確かに、心の中で自分の良心が自身を抑え、自分の行動を抑制・あるいは促進させることは感じることがあるかと思う。言うなれば常に「他人の目を気にしながら」行動しているような感覚だろうか。
私たちは心の中に「賢人」と「弱い人」の両方を抱えている
しかしながら、我々は常に「公平な観察者」に従えるわけでもない。「これはあんまり良くないことだな」と思いつつ、ついついやってしまうような経験は、成人でもない限り犯してしまうだろう。
また、胸中の「公平な観察者」は否認しても、世間の評判などを気にした挙句に行動に移してしまうこともあるだろう。
人間はこのように、公平な観察者の判決に従えない「弱さ」がある。それをアダム・スミスは「弱い人」と名付けた。一方で、基本的には公平な観察者の判断に従える「賢さ」を持っているとも良い、そのような人を「賢人」と名付けた。
とはいえ人は我々はこの「弱い人」と「賢人」を程度はあれど両方を持っており、時には「弱い人」になり、時には「賢人」となるのである。
私たちは完全な社会秩序を形成できない
「公平な観察者」が養われていくことで、それを気に掛ける能力、すなわち義務感覚を持つようになる。そしてさらに正義や慈恵(寛容さや人間愛など)といった強い感情を持つようになる。
特に正義については非常に強力であるため、我々は社会の厳密なルールを形成するようになる。すなわち「法」である。
正義は大建築の全体を支える支柱である。もしそれが除去されるならば、人間社会の偉大で巨大な組織は、一瞬にして諸原子となって砕け散るに違いない。
- 『道徳感情論』より
ただし、一方で我々には「弱さ」があり、それにより法を犯すものも出現する。あるいは権力者が「公平な観察者」の意に沿わない法律を生み出してしまうかもしれない。
したがって、内の中に「弱い人」をもつ我々は、決して完全な社会秩序を実現することができない。
歓喜と悲哀、富と貧困
我々は、他人の歓喜に対しては進んで同感しようとする。そして富、高い地位や権力、高価な物は、見る者に対して歓喜をイメージさせることになる。
対して我々は、悲哀に対しては同感することを躊躇する。そして貧困、低い地位、弱々しいものに対しては悲哀をイメージさせることになる。
その結果、我々は財や地位を強く欲するようになり、野心が芽生える。その結果として市場経済は拡大し、社会は繁栄するようになる。
これはとても納得のいくもので、確かに、それも「貧困」に対するイメージは暗い。だからこそ、それを避けるべく財産形成に走るし、お金持ちに対してはやたらと賞賛する。それは現在も一緒で、少し見渡してみれば明らかである。
それを暴走させ、法や秩序を犯してでも富を求めてしまうのが「弱い人」であり、それは正義感によって制御されなくてはならない。「富を求める」野心が制御できないと、社会の秩序は乱され、結果的に社会の発展や繁栄も妨げられてしまうのである。
アダム・スミスにとって個人とは、それぞれが持つ自身の「公平な観察者の是認」という制約条件のもとで自身の利益を最大化する存在、と定義しているのである。この定義と前提を以って『国富論』を提唱していることを覚えておきたい。
『国富論』から学ぶ、富の機能について
- 作者:アダム・スミス
- 発売日: 1978/04/10
- メディア: 文庫
富は人と人を繋げる
アダム・スミスは、富が人間を生存・繁栄に導くだけでなく、人と人を繋げる機能を持っていることに注目した。
貨幣の起源は、物々交換の代替から始まったと言われる。物々交換は双方の欲望が一致しないと交換は果たされない。私はサッカーボールを持っていて、靴が欲しいと思っている。相手は靴を持っているが、野球ボールが欲しいと思っている。この場合、双方の欲望は一致しないから、私は靴を手に入れることができない。
貨幣は上記の問題を瞬時に解決することができる。私は貨幣で靴を手に入れ、靴の代わりに貨幣を手にした相手は、その貨幣を使って野球ボールを持っている人と取引するであろう。これが人間の中で急速に広まり、ついには市場が形成された。
アダム・スミスにとって市場とは、見知らぬものが繋がり合える場所であると考えた。自分にとって愛情や慈愛がなくとも、貨幣を用いることで、全く見知らぬ人とも取引を行える場所であると考えた。双方は「公平な観察者」の制御のもとで、すなわち同感という能力を用いて、富を交換することができる。これがアダム・スミスにとっての市場社会である。
そして市場が発展する、すなわち経済が拡大するということは、単に富が増えるだけでなく、富んだ人と貧しい人が繋がるのである。富んだ人、あるいは財政を形成したい人は、その野心を基に、自分の富をさらに投資し、さらに莫大な富を手に入れようとする。するとさらに経済は成長し、労働の規模も拡大する。それにより、賃金の規模も増え、次第に貧しい人にもその賃金が行き届くようになる。投資した人は、さらに大きな富を得ることができる。
上記のように、富んだ人(投資する人)は「貧しい人を助けよう」と決して思ってはいないが、結果的に貧しい人の助けとなる。
最近だと、税金や寄付でも同じように両者は媒介していると言えるだろう。税金や寄付金を使い政府や団体が福祉・公共サービスを提供することで、貧しい人も恩恵を受けることができるからだ。さらに、これらは貿易や為替機能により、グローバルベースに発展を遂げている。
このように、富は国内外を問わず人と人を繋げ、多くの人に恩恵をもたらすものとなる。これは、『道徳感情論』で明らかにした人間の人間性から成るものである。
人と人を繋げるための、自由で公正な市場経済システム
前章で挙げた富の機能、すなわち人と人を繋げるための機能を十分に活かすべく、アダム・スミスは「自由で公正な市場経済システム」を構築することが望ましいと提唱した。
『道徳感情論』で述べたように人は公平な観察者の是認という制限のもとで自身の利益を最大化しようと努力する。それらを"健全に"実施できる市場システムを構築することで、市場はさらに拡大し、富は増え、人と人が繋がっていき、全ての人に富を行き渡らせることができると考えたのである。
アダム・スミスがこのように提唱したのは、当時のヨーロッパの経済が非常に独占的で、かつ不正も多かったために、彼のいう富の機能が十分に機能していなかったからである。これが世界史で習ったであろう「重商主義の経済」である。アダム・スミスは『国富論』を通じてこれを強く批判した。
市場システムは、そういった独占や不正を防ぐために、法律や監視制度を用いて適切な規制は必要だ。ただし、政府や公的機関がそれらを適切に設けることができないかもしれないし、『道徳感情論』でいう「弱い人」に屈した挙句、腐敗・暴走することも考えられる。したがって、市場は参加者一人ひとりが持っている「公平な観察者」によって監視・規制されることが望ましいと言える。逆に言えば、自由で公平な市場を構築するためには、その市場を構成する一人ひとりの個人がきちんと「公平な観察者」に従えられるかにかかっている。言い換えれば、その市場の参加者が道徳的に成熟しているかどうかに委ねられている、ということである。
やるべき改革をやる
「自由で公正な市場経済システム」、これがアダム・スミスにとっての理想であった。ただし、言わずもがな理想を実現するのは厳しいものである。今でさえある程度のシステムはできているものの、独占と不正は繰り返し実施されているからだ。
もちろんアダム・スミスは当時のヨーロッパが理想と程遠いことを認識していた。ただし、彼は今すぐ独占と不正を生む規制を撤廃することには反対していた。急激な改革は人々の混乱を招き、市場そのものに危機が生じることを危惧していたからである。これは、アダム・スミスが『道徳感情論』で提唱したように、社会は人々の感情といった人間性をベースに構築されているものと認識していたからこその考えと言えるだろう。
そこでアダム・スミスは、現実的な、今すぐやるべき改革を提案する。それが、アメリカ植民地の市場独占という喫緊の課題を解決するための「分離案」であった。
彼は一方では改革に対し慎重であったが、今すぐ改革すべき課題については大胆に提案した。彼の人間に対する理解の深さからなる判断力が、このような結果になったのであろう。それは、まさに『道徳感情論』での知見が『国富論』に活かされている証となっている。
心の平静さを失わないこと
「たとえ自己の利益を追求しようとも、そういった行為は最終的に社会全体に利益をもたらす」
「したがって、政府による市場への規制は撤廃し、競争を促進させ経済成長率を高め、豊かで強い国を作るべきだ。」
冒頭で挙げた『国富論』でのスミスの提言であるが、そのイメージは覆されただろうか。私は見事に覆された。アダム・スミスは人間性に着目し、人間を愛した。それにより上記のような力強い提言が生まれたのである。その言葉をそのまま文字通りに受け取ってはいけない。
では、自身が秘めている「弱い人」に屈し、富や財への欲望や執着によって自らの人生を奪われないために、我々はどうすべきであろうか。
この疑問に対し、アダム・スミスは「心が平静であること」と答えている。
幸福は平静と享楽にある。平静なしには享楽はありえないし、完全な平静はあるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。
あらゆる永続的境遇において、それを変える見込みがない場合、人間の心は、長時間かかるにせよ、短時間しかかからないにせよ、自然で普通の平静な状態に戻る。人間の心は、繁栄の中にあっては、一定の時間の後に平静な状態に落ち着くし、逆境にあっても、一定の時間の後に平静な状態に回復する。
- 『道徳感情論』より
幸福とは日常の中にあるものである。
働いて、美味しいものを食べて、適度に酒を嗜み、よく寝る。友人や家族との会話を楽しむ。自然の中を歩く。花を見る。青い空を眺める。美しい景色を堪能する。それが何よりの幸せではないか。
木の義足をつけた人は、疑いもなく苦しむし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければならないことを予見する。
しかしながら、彼はまもなく、その不便を公平な観察者たちがそれを見るのとまったく同じように見るようになる。
すなわち彼は、そのような不便を背負っても、一人でいる時に得られる喜び、そして仲間といるときに得られる普通の喜びを、ともに享受できると考えるようになる。
彼は、まもなく自分自身を胸中の理想的な観察者と同一視し、彼自身が自分の境遇についての公平な観察者になる。弱い人が最初にそうすることがあるのと違って、彼はもはや泣かないし、嘆かないし、非難にくれない。
- 『道徳感情論』より
一生のうち、失敗は当然するし後悔することもあるであろう。また引用文のように、大変な不運に見舞われる可能性だってある。しかし、人間は自身の心をもとに乗り越えることができるようである。何があろうと、最終的には心の平静を取り戻し、再び普通の生活のもと、日常の幸せを味わえられるようになる。そんな強さが人間にはあるのだ。
エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとに当てはまるだろう。
王はその寵臣に対して、自分が行おうと企てていたすべての征服を順序立てて話した。
王が最後の征服計について話し終えたとき、寵臣は言った。
「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。
王は言った。
「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」。
寵臣はたずねた。
「陛下がいまそうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。- 『道徳感情論』より
日常の中に幸せがあることを忘れてしまい、あるいは気づいておらず、富や地位に目がくらみ、やがて暴走する。それが真の不幸である。それは本人が不幸になるだけでなく、時に周りの人をも傷つけ、ひいては社会に混乱を招く恐れだってある。
確かに「見えざる手」の通り、富を得ることで社会は繁栄する。しかし、日常の幸せを手放してまで追求するものではない。志や信念のもと、富を築くことは良いことだ。ただし、日常に幸せがあることを忘れてはならない。欲望に目が眩んだとしても、それに打ち克つ強さを持ち、常に心の平静さを保たねばならない。そのような人間としての強さを自身が秘めていることを、信じねばならない。
おわりに
経済学の祖に人としての在り方を説かれるとは思ってもみなかった。そして、幸福であった。アダム・スミスは頑固な経済学者ではなく、人を愛した道徳学者だった。
そして「お金儲けは悪なのか」という疑問に対する、彼なりの明確な考えとヒントを私に与えてくれた。素晴らしい教えであった。
さて「日常の中の幸せ」であるが、これは一生を通して失いたくない信念の一つであり、忘れないように心がけたいものである。それらをよく説いているが中国古典の『菜根譚』。興味のある人はぜひ手に取ってほしいと思う。
名誉や地位を得ることが幸せだと思われているが、じつは、名誉も地位もない状態のなかにこそ最高の幸せがある。飢えに泣き寒さに凍えることが不幸だと思われているが、じつは、飢えもせず凍えもしない人のほうがいっそう大きな不幸を背負っている。
人は名位の楽しみたるを知りて、名なく位なきの楽しみの最も真たるを知らず。人は饑寒の憂いたるを知りて、饑えず寒えざるの憂いの更に甚だしきを知らず。
- 『菜根譚』より
アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
- 作者:堂目 卓生
- 発売日: 2008/03/01
- メディア: 新書
【はてなブログ】大見出しをh3からh2に変更した。
はてなブログでは、はてなダイアリーの影響からなる運営の都合上、大見出しがh3タグとして設定されている。
これがどうも気持ち悪いので、h3からh2に変更するように設定した。
※2019/09/10 追記
本記事のスクリプトを設定すると、目次が正常に動作しなくなる。
解決策は以下記事に書いたので、目次を使用する方はご覧いただきたい。
【はてなブログ】目次が動作しないエラーを解決した。 - 傷鴨日記
設定方法
手っ取り早く設定できる、スクリプトでの変更を採用した。以下の記事の『jQueryでタグを自動で書き換えてくれる方法』だ。
【追記あり】はてなブログの大見出しはh2に変更した方がいいのかも【Markdownを使うなど】 - 広汎性発達障害の女がたまに毒を吐くブログ
以下のコードを『デザイン』→『カスタマイズ』→『フッタ』欄に貼り付けるだけでオーケーだ。
<script type="text/javascript" src="https://ajax.googleapis.com/ajax/libs/jquery/1/jquery.min.js"></script> <script type="text/javascript">// <![CDATA[ $(document).ready(function(){ $('h3').replaceWith(function() { $(this).replaceWith('<h2>'+$(this).text()+'</h2>') }); $('h4').replaceWith(function() { $(this).replaceWith('<h3>'+$(this).text()+'</h3>') }); $('h5').replaceWith(function() { $(this).replaceWith('<h4>'+$(this).text()+'</h4>') }); }); // ]]></script>
これにより、h3(大見出し)がh2に、h4(中見出し)がh3に、h5(小見出し)がh4に強制変換される。記事を書く際はこれまで通りで問題ないから今後も楽である。
変更するメリット
大見出しがh3になっていると、主に以下のデメリットがある。
- h1の次がh3となり、なんだか気持ち悪い
- 上記理由により、SEOに悪影響が出る可能性もある
- 精神上、よろしくない
要するに、気持ち的にどことなく変更しといたほうが良いな、となるわけである。なお、h2にすることで実際にアクセスが上がったという報告もあるようだ。
はてなブログで検索からのアクセス数を増加させる効果があった方法!! - Future Nova
神経質でなければ全く気にしないだろうし、何の影響もないと思われる。実際、見た目には何の変化もない。
見出しデザインも変更しておく
見出しデザインをカスタマイズしているなら、こちらも変更しないとデザインもズレる。h3にデザイン設定していたら、今後は大見出しではなく中見出しでそのデザインが設定されてしまうからだ。
したがって、以下記事を参考に見出しデザインも変更しておいた。
この記事ではh3をそのまま大見出しとしているが、私のように見出しを変更していると以下のようになる。
◆大見出し1(h2)
◇中見出し1−1(h3)
- 小見出し1−1−1(h4)
- 小見出し1−1−2(h4)
◇中見出し1−2(h3)
- 小見出し1−2−1(h4)
- 小見出し1−2−2(h4)◆大見出し2(h2)
◇中見出し2−1(h3)
◇中見出し2−2(h3)
◇中見出し2−3(h3)
したがってデザイン設定するときは、h2~h4を指定すれば良い。
コードは以下で、これを『デザイン』→『カスタマイズ』→『デザインCSS』欄に貼り付ければオーケー。
.entry-content h2 {
お好きな設定値でどうぞ。
}.entry-content h3 {
お好きな設定値でどうぞ。
}.entry-content h4 {
お好きな設定値でどうぞ。
}
設定は以下から好きなものを選んでも良いし、自分で設定しても良い。
『.entry-content』は記事内の見出しを指定するもので、これを外すと別のh2~h4タグ(ブログ説明文とか)にも影響が出るので注意しよう。
【はてなブログ】Feedlyボタンを設置してみた。
そういえばRSSリーダのボタンだけ設置してなかったな、ということで有名なWebサービス"Feedly"のボタンをプロフィール欄と記事下に設置してみた。
はてなブログでのFeedlyボタン設置方法
1.ボタンを作成する
以下の記事でボタンが作成できる。
1−1.好きなボタンを選んでクリック
クリックしても特に反応はないが、きちんと選択されているので大丈夫。後順のStep3で選んだボタンが表示されてるので確認は可能。
1−3.HTMLコードが完成しているのでコピー
勝手にHTMLコードが完成しているため、それをコピーする。
2.好きな場所に貼り付ける。
サイドバーのプロフィール
サイドバーのプロフィール欄であるが、こちらはHTMLタグを識別してくれるので、そのままペーストすれば問題なく表示される。
記事下
『デザイン』→『カスタマイズ』→『記事』→『記事下』欄に貼り付ける。
上図のように、スターやシェアボタンの上に置きたい場合は以下のようにすれば良いらしい。
<div id="my-footer"> FeedlyボタンのHTML </div> <script> var myFooter=document.getElementById("my-footer"); var temp=myFooter.cloneNode(true); myFooter.parentNode.removeChild(myFooter); document.getElementsByClassName("entry-content")[0].appendChild(temp); </script>
【はてなブログ】外部リンクを新しいタブで開くようにした。
自分で書いたはてなブログを見てみると、外部リンクをクリックしても、同じタブから遷移してしまっていることに気付いた。
せっかくなら別タブ(新しいタブ)を開いてほしい。
これもまたWordpressだと簡単に設定できるものなのだが、はてなブログは若干手間取った。
ちなみに私は最近『見たまま編集』から『はてな記法』に切り替えた。はてな記法だとURL貼ったら自動でリンクの貼り方を選ぶ画面を表示してくれたりと、慣れれば書きやすい記法であることに気付いたからだ。
外部リンクを新しいタブで開くための設定方法
で、以下記事の設定値をヘッダーに貼り付ける手段が最も効率が良いため、こちらを採用した。
以下のコードをヘッダーに貼り付けるだけ。
<script type="text/javascript" src="//ajax.googleapis.com/ajax/libs/jquery/1.10.2/jquery.min.js"></script> <script language="JavaScript"> $(document).ready( function () { $("a[href^='http']:not([href*='" + location.hostname + "'])").attr('target', '_blank'); }) </script>
ヘッダーは『設定』→『詳細設定』→『headに要素を追加』欄にコピペすればオーケー。
この手法の良い所は、リンク先のドメインが異なる場合のみ新しいタブに遷移してくれる点だ。
すなわち、内部リンク(自ブログの他ページへのリンク)は同じタブで遷移してくれる。ただし、ブログカードの場合は内部リンクであろうと新しいタブになる。
【はてなブログ】子カテゴリを作りカテゴリを階層化させてみた。
カテゴリーの整理も兼ねて、子カテゴリを作ってみた。
Wordpressだと簡単にできるから、てっきりはてなブログでも楽に階層化できるのかと思ったが、実はそうでもないらしく若干手間取った。
が、基本的には以下の記事を参照すれば問題なく設定できた。
blog.wackwack.net
サイドバーのカテゴリの並び順が『アルファベット』順じゃないと動作しないのが残念。可能なら自由に並び替えしたかった。
とりあえず『図書館』カテゴリだけ階層化してみたが、記事が多いカテゴリはもはや再設定するのが面倒臭いのでとりあえず放置。してるけど今後整理したくなった時は更に面倒になるな。
また上記機能は参照記事の方のサーバにて作動しているため、急に機能しなくなるリスクもある。というのは予め認知しておきたい。
宇垣美里の「自分に課す7つのルール」が面白い。
他人の人生を覗くのが好きだ。
時には感動するし、時には参考になるし、時には疑問を抱く。
そうしてまた新しい自分ができあがっていく。
そんな自分にまた出会えることが好きだからなのかもしれない。
そんなこんなで少し気になっていた、アナウンサーである宇垣美里さんのエッセイ『風をたべる』を手に取ってみた。
この人のやや尖った考え方をもっと知りたいという欲求と、単に外見が可愛いから写真を見たいという2つの理由が主であったが、著書の中で出てくる「自分に課している7つのルール」というのが面白かった。
はい可愛い。
1.折に触れ手紙を送る。
何度も推敲して、その人だけを考えて書いた言葉は、私の本当の気持ちを真っすぐ伝えてくれる気がするんです。
記念日やお礼を伝える際は必ず手書きで手紙を書いているらしい。便箋や葉書もしっかりチョイスするらしい。
これはとても共感できる。Amazonのギフトとかだと唯の印字になって全く味気なかったりするが、手書きになったその瞬間、愛が生まれる気がするからだ。
これを履き違えてエントリーシートは絶対に手書き、みたいな風潮になるのは好ましくないが、大切な人へのメッセージはLINEではなく、手紙で送るのが良いかもしれない。
私はこれを見習い、退職日には職場の皆さんにそれぞれ手書きでメッセージを書いて渡さなかった。
2.関西弁を忘れない。
働き始めてから、時に自分が特殊な人間になったように錯覚してしまうこともあるけど、関西弁の響きは、私をただの女のコに戻してくれる気がするんです。
これは分かる。
地元で友達に会った際に関西弁で話せるのは、なんだかとても居心地が良い。帰ってきた実感が湧くのは、実は関西弁で話すことなのかもしれない。
というか地元に帰ったら勝手に関西弁に戻るから、私の場合はもはやルールでもなんでもないのだが。
3.メイクは”遊び”をつくる。
どんなにまじめに仕事をしているときも、理不尽な目に遭ったときも「おとなしく怒られてますけど、私のアイライン紫ですからね…」とひとりで笑えるポイントつくると、なんでも楽しくなってくるからオススメです!
本作でもちょくちょく出てくるが、この人は本当にメイクが好きらしい。
男性目線からして、何かが全力で好きな女性(男性も)はとても魅力的に映る。それくらいに”好き”の魔力は強いらしい。
さらにいえばこの人はそりゃもう美貌なわけであるから、メイクが完璧にマッチしていて、もう素晴らしいですね。
4.すぐメモする。
ただ面白い、悲しいだけで片付けず、どう面白かったのか、どう悲しかったのか、ちゃんと言語化して残すと気持ちも整理されるんです。
これも分かる。
私の場合はメモではなく日記形式なのだが、「手を使って書く」ことは驚くほど気持ちの整理に繋がる。
スマホやパソコンだけで済ましている人は一度試してほしいと思う。
5.時間ができれば旅に出る。
自分はどこに行ったって幸せに生きていけるなって実感することが一番大事なんです。
これはルールとして設定してしまえば、むしろ良いのかもしれない。
私の場合は先ずエネルギー回復のために寝ないとダメなタイプなもんだから、このルールは少々手強いが。。
6.好きや幸せ、感謝はすぐに伝える。
プラスの気持ちは、出し惜しみしない。
これは素晴らしいルールだと思う。
思ったこと、それもプラスなことを素直に伝えられる人は素敵だ。見習わなくてはならない。
7.悩んだらとりあえず寝る。
考えて考えて、それでも結論の出ない物事は、今の自分じゃ解決できないに違いないので、とりあえずリセットするために寝ます。
これは是非とも実践したい。
のだが、私の場合はベッドで余計に考えすぎちゃって全然寝れなくなってしまうから難しい。先ずは風呂でリラックスだろうか。
この人の考え方はひねくれているように思えるところもあるけれど、一貫してるから清々しいし面白い。テレビで見かける度によくこんな強く生きれるなと思っていたが、実際は..なんてところも見れて良かった。
「人は誰しも悩んで傷つくもの。そして人は皆、それぞれの地獄を生きる」なんてのはこの人らしい章タイトルだわ。