傷鴨日記

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石田梅岩の思想:商人としての正しい在り方

石田梅岩という思想家をご存知だろうか?

石田梅岩は江戸時代に京都にて商人としての道を歩み、その後は思想家としてあるべき人の道について説いた、日本を代表する思想家の一人である。

世界中で貨幣経済が大発展した近世から現代までにおいて、日本があっという間に近代化できたり、第二次大戦後に驚異的に復興・発展を遂げられたのは、日本の労働者が極めて勤勉で、優秀だったからだ。

その原点の一つが、石田梅岩が説いた「石門心学」であると言われている。

今回はその石田梅岩について紐解き、人としての正しい在り方、あるいはお金を稼ぐことの意味合いについて学んでいきたい。

石田梅岩とは

石田梅岩は1685年、京都の東懸村(現・京都府亀岡市)に生まれる。「梅岩」とは後に自身がつけた号で、諱は興長(のりなが)、通称は勘平だった。

石田梅岩の半生

彼の一族はそれなりに裕福な農家だったそうであるが、次男として生まれたため、若くして京都の商家に奉公に出た。

彼が勤めたのは呉服商の黒柳家で、そこで20年間もの期間を必死に働き、最後は番頭( 商家の使用人の最高職位)にまで登りつめた。

青年期の梅岩が育った元禄時代(1688〜1704年)は、武士の力が衰え始める一方で経済活動が活発になり、町人の力が増していった時代である。それとともに米経済から貨幣経済へと移行し始め、商業が発展していったとされる。また、町人の台頭によって町人による文化、いわゆる上方文化が開花した。

石田梅岩は商人としての道を歩みつつ、学問にも大いに励んでいた。朝は誰よりも早く起きて、夜は皆が寝た後でも書物を読んで過ごしたのだそうだ。そこで神道・仏教・儒教を学び、儒学者の講義なども聞きに行くようになった。

石田梅岩は学問を通して、次第に「人の人たる道」を追求し始め、石門心学の主要思想とされる「節約」「正直」「勤勉」の重要性を悟り、これらを市民に広めたいと思うようになる。

30代半ばに仏教者である小栗了雲と出会い、彼に惹かれた石田梅岩は師事する。これにより、本格的に思想家としての道を歩み始めた石田梅岩は、42歳の時に黒柳家の奉公を辞して、学問に専念するようになった。

石田梅岩は小栗了雲の死後、自分の思想を他の人に広めるべく無料の講座を自宅の一部屋を使用して開いた。ここでは儒教・仏教・老荘思想・日本の古典まで幅広くの書物を読み聞かせ、解説するというものであった。

もちろん最初は誰も聞きに来ることはなかったものの、徐々に聴衆が集まり始め、次第に町人たちに受け入れられるようになった。ひいては関西各地への出張講義も行うようになり、彼の思想は町人層を中心に広まっていくことになった。

石田梅岩が講義を開始した8代将軍徳川吉宗の時代は、有名な「享保の改革」のもと、倹約と増税を頼りに幕府の財政改革を進めている最中であった。一方各地では豪商や豪農が誕生し、格差が拡大した。このような背景の中で「人の人たる道」を説き、商人としての商業活動の肯定化にも励んだことから、町人たちにはその精神が受け入れやすかった。次第に弟子たちも生まれ、石田梅岩という名が世に広まるようになった。

石田梅岩の思想

石田梅岩は晩年、弟子たちを集めて、今でいうゼミナールのような研究会を開いていた。ここでは人生や家族、経済活動から財産相続まで、多岐にわたるテーマが議題となっていた。

その後、研究会の総決算として、弟子たちにも協力され、54歳の時(1739年)に『都鄙問答』、58歳の時(1744年)に『倹約斉家論』を刊行し、59歳にて死去した。

『都鄙問答』では商人の道が説かれている。

商人は法を守り、「倹約」に励むことで世の中の役に立てる。結果として子孫繁栄の道に繋がると説く。

また、商人の道は私欲を抑え、家業に励むこと、すなわち「勤勉」に始まる。この道を知るため、商人にも学問が必要であると説く。

商人が正しい利益を貰うことは正当な行為であが、そのためには「正直を守る」ことが必要である。そのため、二重の利益は取るべきではなく、利益追及に溺れる経営をしてはならないと説く。

このように、石田梅岩は商人の社会的意義を主張した上で、正直かつ義のある行動を取ることが商人としての正しい道であると強く主張していた。

石田梅岩の死後:石門心学の発展

石田梅岩が亡くなった後、商家出身の弟子たちは彼の遺志を継いで、講義や研究会を継続する。最年少の直弟であった手島堵庵は、周りの要請に応じて石田梅岩の教えや関連学問を講じるための心学講舎を京都に開設した。

さらに手島堵庵の門下生たちが関西や江戸にて布教活動に乗り出し、各地に心学講舎が設立され、町人だけでなく武士たちへの普及にまで活動を広げていった。

ところで石門心学であるが、そもそもは手島堵庵の弟子である中沢道二が「心の学び」として広げていったことから、「心学」と呼ばれるようになったとされる。ただし中国の王陽明が説いた陽明学も心学と呼ばれていたことから、それと区別するために「石門心学」と呼ぶようになった。

石門心学は幕府の批判もせず、身分を越えた視点で道を説いたため、幕府からも受け入れられた。そのため幕府も普及を後押しし、ついには大名や上層武士たちにも浸透し、全国的に広まっていった。心学講舎においては、最盛期に全国で170ヶ所以上に達した。

その後は誰もが自由に学べることもあって石門心学は衰退するが、現在でも一部は心学関係団体(一般社団法人心学修正舎など)として活動を続けている。

石田梅岩の教えを京都で学ぼう! 心学修正舎

商人に道徳を説いた石田梅岩

商人で道を知らない者は、ただ貪ることだけをして家を滅ぼす。商人の道を知れば、欲心から離れ、仁心で努力するので、道に適って栄えることができるだろう。これが学問の徳というものである。
 - 『都鄙問答』より

「貪ることだけ」とは言わば自身が秘めた欲望を抑えることができず、自分の利益を追求してしまうことを言っている。石田梅岩は、これをやってしまうと身の回りを滅ぼすことになってしまう。

したがって、そのような欲望からは距離を置き(欲心から離れ)、常に思いやりを持って努力をする(仁心で努力する)ことを心がけなければならない。石田梅岩はそのような、実行するにはやや厳しい態度を我々に示している。

これに対して疑問を持つ者が多くいた。なぜなら当時、商行為は「貪ること」を生業としていると信じられていたからである。そして、商人は文字通り「欲望の塊」とも揶揄されていた。俗にいう賤商観、商人は賤しい者と捉えられていたのが当時の風潮であった。

石田梅岩はこの意見に強く反対している。彼は、商人もきちんと学問を修め、人として正しい態度で仕事に向き合うことで、労働の質も向上されると思っていた。

このように石田梅岩は人間の本性は道徳にあると説き、それを前提として商人道を説いた。奇しくもこれは、「道徳感情論」にて道徳を説いた後に「国富論」にて経済論を説いたアダム・スミスと同じ手順となっている。

参考:『国富論』の本質、『見えざる手』の誤解 - 傷鴨日記

アダム・スミス石田梅岩も、自己愛(欲望)を抑制させ、傍若無人に自己の利益を追求する行為を否定しているのである。

さらに石田梅岩の思想の実践が厳しいのは、自身が行う全ての行為が、公共の利益を追求するものとなることを説いているからである。アダム・スミスの言う「見えざる手」に頼るのではなく、自らの精神を以って、その公共の利益を実現できる行為に励むこと。これが彼が求める道徳論であった。

商人道のあるべき姿とは

先述したが、「士農工商」と言う言葉で最後に「商」という言葉が来るように、当時の商人に対する風当たりの強さは相当なものがあったのだそうだ。

「商人は何も生産せず、単に横流しをして金を稼いでいる」、「商人は何も
生み出さず貪っているだけ」のような偏見が世間を覆いつくしていたのである。

売買を常日頃より自らの仕事をしながら、何が商人の道に適っているのか、全くわかっていない。どういうことを大切にして、売買の仕事をするのが適切なのだろうか。
 - 『都鄙問答』より

『都鄙問答』は「問答」とあるように、ある受講生の質問に対して石田梅岩が回答する形式の書籍となっている。上記はそんな世間の偏見に苦しんでいたであろう商人の質問である。

この質問に対して、石田梅岩は以下のように答えている。

商人の起源から言うと、昔は余っているものと足りないものと交換して、相互に物を流通することが目的だったのだろう。商人は精密に計算しながら、今の世で仕事をするものなので、一銭も軽んじることがあってはならない。こういったことを重んじて財産を成すことが、商人の道である。
 - 『都鄙問答』より

商業の本質は「交換と流通」であって、社会的に意義のあるものだと説いている。

今となっては当たり前に捉えられている意義かもしれないが、しかしどうも「お金稼ぎは悪いこと」と、現代の多くの人が思っている。私もその一人で、意義あることは分かっていても、何か罪悪感のようなものが生じてしまうのである。

石田梅岩はその疑問に対して、明確に回答している。

財産の元は天下の人々である。彼らの心も自分の心と同じなので、一銭すらも惜しむ気持ちがあることを推測できるだろう。

商品に心を込め、少しも粗雑にせず売リ渡せば、買う人もはじめは「お金が惜しい」と思うにしても、商品が良質であることから、その惜しむ気持ちがなくなっていくはずである。惜しむ気持ちをなくすことは、人々を善導することを意味するものだ。

天下の財貨を流通させてすベての人々を安心させることができれば、「四
季が交代して、すベての生き物が自然に養われる」ということと同じく、理に適っている。このようにして、財産が山のようになったとしても、それは欲心と表現すべきではない。
 - 『都鄙問答』より

私に響いた点が、太字部分である。商人として思いやりを持ち、商品に心を込めて、大切に売る。良質な商品であれば、買い手も惜しむことなく手に取ってくれる。そのような道をもって財産を築いても、それは全くもって欲心ではない、一切問題のないものだと、そう説いているのである。

ここで私を含め、現代人の多くが「お金儲けは悪いこと」と捉えている理由がなんとなく分かってきた気がした。

要するに、最近の経済というと石田梅岩の言う欲心に囚われた経営者があまりに多いということだ。石田梅岩の言う正しい商人道を歩んでいる人があまりに少なく、マネーゲームと化している現代に、人々は嫌気が差しているのかもしれない。尊敬できる現存の経営者は、果たしてどれだけいるだろうか。

梅岩にとっては、「正しい財産」と「正しくない財産」がありましたが、その判断は、財産を獲得した商人の心が、どのような状態であったかに大きく左右されます。
 - 『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか』より

石田梅岩が「彼らの心も自分の心と同じなので、一銭すらも惜しむ気持ちがあることを推測できる」と言っているように、買い手にもお金を惜しむ気持ちがあり、それを想像し、思いやり、それを踏まえて売買する。これこそが商人としての正しい姿なのである。

正直であれ

自分に他人の誠実と不誠実がわかるように、他人からもまた、自分の誠実と不誠実はわかることを知らない者が多い。『大学』に書かれているように「他人は自分の心の奥底まで見抜く」のである。この真理を知れば、言葉を飾らずありのままにいうので、正直者と思われ、また、何事でも任され頼られて、苦労することもなく人一倍、物を売ることができるのだ。正直だと思われ、打ち解けることは、自分にも相手にも善であると知らなくてはならない。
 - 『都鄙問答』より

商人の意義を示しつつ、一方で石田梅岩は道に沿わない商人を正そうと努めていた。その訓言の一つが、「正直であれ」というものだ。

世の中に道の沿わない商人が溢れかえると、長期的に衰退していく。商品の質が下がり、結果的に競争力も下がり、生活水準も低くなってしまうのである。己の欲望のみに従い短期的に莫大な利益を得たとしても、長期的には酷い状況を招いてしまうのだ。

逆に正直に商売を行った者は、結果として商売も繁盛するだろうと石田梅岩は述べている。

不正があれば直ちに報告して正す、問題があれば伝える、問題を隠して利益を取らない。

当たり前の行為のようにも見えるが、これをできない企業がいかに多いことか。昨今の不祥事は、まさに正直さを包み隠した行為であると言える。そして結局は自らを更に苦しめることになり、ひいては国家そのものが衰退してしまうのである。そろそろ我々は、真の危機感を覚えねばならない。

孔子も、「自らが望まないことを、他の人にしてはいけない」といっている。自分が嫌だと思うことは、他の人も嫌がるものである。

私が木綿を分けるならば、あなたに良好なほうを渡すだろう。あなたが分けるなら、私に良好なほうを渡すはずだ。またあなたが織りの良好なほうを取り、私に悪質なほうを渡すならば、あなたに切り分けてもらったので、それも当然と納得する。

このように考えておけばいつでもうまく事が運ぶだろう。あなたに良質なものを渡せば、あなたは喜び、私は仁心を養うことになる。よいことではないか。
 - 『都鄙問答』より

引用している孔子の言葉は「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」という有名な格言である。孔子は、弟子に「一生の信条に値する言葉は何か」と聞かれ、「恕である」と答えた上で、これを述べた。恕とは思いやりのことで、なるほど確かに素晴らしい教えであるが、実践するのは非常に難しいことである。

参考:「自分のやりたくないことは、人にするな」が、できない。 - 傷鴨日記

しかしこの言葉通り、相手の気持ちを第一に考えて、理に従った行動をすること。これを積み重ねることで、自らの心が磨かれ、徳を積むことができるのである。

このような場面は日常のあらゆるところで遭遇する。選択するのはいつも自分で、私欲を断つことができる人のみが、正しい道を歩めるのである。実に厳しいことであるが、心に留めて精進したいものである。

人のための倹約

消費と倹約は二者択一に捉われがちであるが、そうではない。消費も必要だし、倹約の意義を知ることもまた、必要である。

消費は経済を回すためには必ず求められる行為であるし、それが豊かな社会形成に繋がることは確かだ。だが、それが暴走してはならない。欲望に囚われ、欲しいものに取り憑かれ、依存し、思うがままに消費してはならない。

「消費することが幸福に繋がる」という幻想に取り憑かれはならない。それには限度があり、自分自身で抑制しなければならない。そのために、倹約の意義を知るのである。

消費は必要で、その暴走を止めるために倹約の意義を知るのである。超消費社会である現代だからこそ、その重要性はさらに高まっているのだ。

そして石田梅岩は先述した通り、「倹約」を主張していた。彼の言う倹約とは単なる節約ではなく、倹約が世の中のためになるという主張が含まれている。

倹約ということは、世に説かれているものとは異なり、自分のために物事を節約することではない。世界のために、従来は三つ必要だったものを、二つで済ませるようにすることを、倹約というのである。

書経』にあるように、「民は国の根本で、根本がしっかりしていれば、
国は安らかに落ち着く」のである。その根本は、民に食料が足りていることなのだ。このために、君は民より年貢を少なめに納めさせ、民を豊かにしようとする。
 - 『石田先生語録』より

普通、倹約とは自分のためにすることのように思われるのだが、石田梅岩のいう倹約は、世界のためになるというのである。それを示すためにも、まずは国を治めるものが率先して倹約すべきと主張している。

このあたりはまさに儒教の影響が強いと思われる。『書経』とは儒教の経典である五経の一つである。儒教の教えは「己を修養し、国を治める」ところにあるのだから、先ずは為政者が倹約をするという考えは当然である。

また、私の好きな春秋時代の政治家「晏子」も似たような考えの基、自らは大変質素な生活を営んでいた。尊敬に値する行いである。

参考:「晏子春秋」に学ぶ、人として正しい生き方とは。 - 傷鴨日記

しかしながら石田梅岩は、為政者は率先して倹約した上で、たとえどういった身分であろうとも倹約は必要だと述べている。各々が倹約すれば、各々の家が整い、ひいては国全体が治っていくと考えているのである。

では、倹約することで得られる効果はどのようなものがあるだろうか。

石田梅岩は、倹約が単なる金銭的余裕を生むだけでなく、人間関係も改善すると主張している。

例えば親戚や友人を招いた時、贅沢を好むものが開くと、必ず豪勢な料理を出そうとするはずだ。しかしそんなことばかりするとあっという間にお金が尽きるため、会を開く回数が減り、結果的に人々との距離が生まれてしまう。

変に見栄を張ることなく、経済的負担を少しでも軽くすることで、より親しくなれるのではないかというのが彼の主張である。

また、日頃から倹約に努めることで、いざという時に人々を助けることができるとも説いている。本当に困窮しているものを助けることができるし、困った知人に手を差し出すこともできる。

倹約によって身近な人々が幸せになり、人間関係がよりよくなるという考え方だ。

経済的に困窮しているものや、よく働く者にボーナスを与えることは、私心を交えれば多大な消費であり損失である。しかし彼は、そういった者に経済的援助を行うのは、本来の彼らの姿を取り戻すことに繋がり、これはまさしく倹約であると言っている。

困っている人を援助して、無事に職に就くことができれば、収入を手にし、精神の安定にも繋がる。ボーナスを与えれば、その人々の周りもまた幸せになる。彼らの本来の姿を取り戻すことが、この世の為に繋がるのである。したがって、人のためにお金を使うことですら倹約になるというのだ。

私欲ほど、世に害をなすものはないだろう。このことを理解せずして行なう倹約は、どれも吝嗇に至り、大きな害を及ぼす。私がいっているのは、正直から始まる倹約なので、人を助けるものである。孔子はいう、「人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運にも災いを免れた者に過ぎない」と。これを踏まえれば、不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ。恐るベきことである。
 - 『倹約斉家論』より

吝嗇はケチのことで、私欲のために節約をする。対して石田梅岩のいう倹約とは世界のための節約であり、両者には決定的な違いがあると述べている。

正直さを失い私欲に従い財をなす者。頑張っている者に対して報酬を与えない者。ケチをつけてクレームをつけ金を取り上げる者。なるべく安く雇用し、働かせた挙句にクビにする者。どれも死人に等しいというのだ。この教えは忘れないでおきたい。

残念なことに現代はこの教えに逆行して、年功序列システムによるリストラ問題や非正規雇用率の上昇、外国人労働者問題と、厳しい時代を歩んでいる最中だ。確かに会社を家族と考えるのは時代遅れかもしれなが、それでもルールに従えばそれで良いと割り切るのではなく、思いやりを持った経営を追求してほしいと願うばかりである。

まとめ

最後に改めて石田梅岩の振り返ろう。

  • 商売は悪ではない。思いやりを持った売買を通して得た財産は、誇るべき者である。
  • 道徳に沿って正直に行う商売こそが、商人としてのあるべき姿である
  • 世のために行う倹約が、我々を豊かにしてくれる

石田梅岩の説く石門心学は、人として、商売人としてのあるべき姿を示し、これから更なる発展を築くための教科書なのである。

どのような状況に置かれようと、正直に思いやりを持って行動し、私欲から離れ、ひたむきに努力すること。これを人々が実践できるかどうかに将来はかかっている。

私も頑張りたい。

参考文献

なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?

なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?

石田梅岩に学ぶ「石門心学」の経営

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