「自分のやりたくないことは、人にするな」が、できない。

「自分のやりたくないことは、人にするな」。生きる上で大切にしたい教えの一つであろうが、これが中々に実行できない。

この言葉は孔子が「恕」を定義する際に用いた言葉であり、以下のように記されている。

己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。

これは普通、「自分のやって欲しくないことは、人にするな」と捉えられる。要するに自分が他人からやられて嫌だと思うことは、自分はしてはいけないということである。

これに対し経済学者の安富歩氏は、この言葉の意味を「自分のやって欲しくないことは、人にするな」ではなく「自分のやりたくないことは、人にするな」と訳している。

「自分のやりたくないこと」とは、単に自分の欲求のことを言っているわけではない。人として当然とも言える、義や誠の心に背いた行いを他人にしてはいけないということである。

 「自分のやりたくないことは、人にするな」という言葉は、当たり前のように見えるが、そうではない。例えば日本軍の兵士として中国大陸に派兵されて、そこで「初年兵教育」と称して「肝試し」のために、罪のない人を殺せと命令された場面のことを考えてみよう。こういう場面で命令に背くのは容易ではない。それでも仁を志す者ならば、たとえ命を捨ててでも、「自分のやりたくないことは、人にするな」というのが孔子の教えだと私は考える。これをやり抜ける人は、どのくらいいるだろうか。

  - 『生きるための論語』より

きっと私は上司の命令に逆らえず、自分の気持ちに苦しみつつも、あっさりと罪のない人を殺すであろう。そのくらいに私は臆病であり、クズである。

あなたは第二次世界大戦時の日本兵。捕縛した罪のない市民を今すぐ虐殺せよと命じられた。命令に背けばあなたは殺されるし、あなたの家族も処刑される。さあ、どうする?

ああ、こんな状況を考えるのはとてつもなく辛いが、臆病な私は、やっぱりその場にいる市民を殺してしまうであろう。

幸いなことにこれほど酷な状況には、少なくとも今の日本で普通に暮らしている限りは遭遇しないであろう。しかし、ここまでとは言わないものの、我々には必ず「自分のやりたくないことは、人にするな」という教えを試される時がやってくるものである。例えば、以下である。

銀行員であるあなたは、上司に課されたノルマにより、大して価値を感じることのない生命保険を多くの人に買ってもらう必要が生じた。達成しないと上司による長々とした説教、および減給処分があなたを待っている。

さて、こんな状況で、明らかに生命保険が不必要とされる老夫婦に、あなたはこの商品を勧めるだろうか?似たような状況は、会社員として働いているあなたならいくらでも想像がつくだろうが、やっぱり私はノルマのためならどんなクソな商品でも売ってしまいかねないくらいに気弱だと感じている。

あなたはたまたま、吉澤ひとみの轢き逃げ事故に遭遇した(参考動画)。周りは全く動じず、何事も無かったかのようにやり過ごしているが、あなたはどうするだろうか。

さて、この動画は吉澤ひとみ氏だけでなく、轢かれた方の近くにいた周りの人々が、特に寄り添うこともなく平然と横断歩道を渡っていってしまっていることに、世間は衝撃を受けた。もちろんあるべき姿は、轢かれた方の介抱をしたり、救急車を呼んだりすることであるし、当然の行いであろう。

しかし、一瞬の出来事でパニックに陥り、はたまた誰も対応せずに平然と行く様を目撃してしまうと、自分の行動にも迷いが生じてしまうであろう。少なくとも私は、この状況に立たされても真っ先に行動できる自信が無い。クズなことを言っていることは承知であるのだが、所詮その程度の人間なのだ、私は。

あなたは電車で優先座席に座った。一駅先でお年寄りの方が乗車してきたが、座席は一つも空いていない。お年寄りは私の目の前ではなく、少し遠いところで立っているが、目の前に座っている人は誰も譲ろうとしない。さあ、あなたはどうするか?

このくらいの出来事は日常茶飯事の如く目にする光景であるが、これもまた「自分のやりたくないことは、人にするな」が試される瞬間でもある。

この点に関しては素直に譲れる方も多いであろうし、たとえ拒否されたり、返って怒られる可能性があることを分かった上で対応している若者を見ると、ああとても良い世界だなと思うわけである。

中には全く譲る素ぶりを見せない者もいるが、果たして私はどうかというと、正直に申し上げて実行できない時がある。空いている時や家族や友人と同席している時(知り合いがいると、良いところを見せなきゃ、というひねくれた考えがそこにはあるのだろう)は譲れることが多いのだが、混んでいるとなぜか勇気のハードルが上がり、譲れなくなってしまったりする。また、これは自分を観察していて大変興味深いのだが、イヤホンをしているとなぜか譲れなくなる。どうやらイヤホンをして音楽を聴いていると、たちまち自分の世界に入り込んでしまい、たとえ電車の中にいようと外界をシャットアウトしてしまうらしい。

譲れないとその瞬間に心がチクっとするし、大変後悔する。しかし、少しすればそんなことはどうでもよくなる。書いていて悲しくなるが、やはり私は弱者である。

ナチス政権下のユダヤ人大量虐殺の関係者であるアイヒマンは、「私は命令に従っただけだ」として自分の責任を認めなかった。この態度がなぜ誤っているのかを、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」という言葉は直ちに明らかにしてくれる。

  - 『生きるための論語』より

己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。孔子によるたった一文の教えですら、私は未だ実施に至れない人間である。今の所、私は孔子を語る資格などない。それでもやはり、孔子の教えに従い、少しでも善く生きていきたいものである。

そこで、やはり孔子の教えに従い、人格を磨いていきたい。ここで渋沢栄一の言葉をお借りしたい。

彼ら(筆者注:孔子孟子といった儒教の始祖たちのこと)のとなえた、

「忠」- 良心的であること

「信」- 信頼されること

「孝弟」- 親や年長者をうやまうこと

などを重視するのは、とても権威のある人格養成法だと信じている。要するに、忠信孝弟を重視するのは、

「仁」- 物事を健やかに育む

という最高の道徳を身につけるために、また、社会に生きていくうえでも一日も欠かせない条件なのだ。

この忠信孝弟を、自分を磨くうえでの基本にすえたなら、さらに進んで知恵や能力を発展させていくための工夫をしなければならない。

  - 『論語と算盤』より

常に忠信孝弟に従い、ふさわしい言動を実施することができれば、その時はじめて私は「自分のやりたくないことは、人にするな」を体現できるであろう。これが試された際に、少しでも状況を冷静に捉え、勇気を出して自分の意志を示していく。自分がとんでもない不祥事を起こしてしまう前に、まずは小さな試され事から突破していきたい。

「目的を達するためには手段を選ばない」

といったように成功の意義を誤解する人もいる。さらには、どんな手段を使っても豊かになって地位を得られれば、それが成功だと信じている者すらいるが、わたしはこのような考え方を決して認めることができない。素晴らしい人格をもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果手にした豊かさや地位でなければ、完全な成功とはいえないのだ。

  - 『論語と算盤』より

完全な成功とは、誠に難しい。とはいえ、成功を求める前に、まずは人格の修練である。それができねば、彼の言う成功には一歩たりとも近づけないのだ。

生きるための論語 (ちくま新書)

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