志を持って生きる。

大学4年生から日記を書き始めた。記録することは好きであったし、いつか振り返る日も来るだろうなと思い立って始めたのだ。習慣づけることは得意であったので、あっという間に2年間ほど書き続けることになった。

しかし意義を感じなくなって、途端に書くこと辞めてしまった。主に仕事で多忙になったことが原因であったが、単にその日あったことを書き留めることに飽きてしまった。それを再開することにする。

休職をしてから自分をよく見つめるようになり、自分とは何か、自分にできることは何かをよく考えるようになった。そして改めて、自分は何をやりたいのか、何が好きなのかを考えるようにもなった。社会人、それもサラリーマンというある意味特殊な職業に就いたからか、あるいはこれまでの教育や環境が私をそうさせたのか、私は酷く凝り固まった思考に陥っていることに気付かされたものである。

今の環境に満足していないわけではないが、やはり毎日が最高に楽しいかというと決してそうではない。仕事には精一杯取り組んではいるが、これまた日記と同じで、大きな意義を感じてはいない。

なぜだろうか。思うに、人の役に立っている実感がないからと私は考えている。もちろん今やっているシステム開発は大変意義があるものだし、これらインフラの整備・保守が人々の生活を支えていることは間違いない。が、ある意味なくなっても(たいそう混乱は招くであろうが)困ることはないだろうし、人々を笑顔にするわけでもない。むしろ、人々の笑顔を奪わないように、不幸にならないように保守しているようなものだ。これはどうも私のやりたいことではない。

できれば自分が最も得意とすることで、人々の役に立てるような仕事をしたいと思う。そのためには安心や怠慢からは遠ざかり、多少の苦労や度重なる努力が必要であろう。世間的な目に対しても強靭になりたい。覚悟を持って人生を歩みたい。

志を立てることは、人生という建築の骨組みであり、小さな志はその飾りなのだ。だから最初にそれらの組み合わせをしっかり考えてかからないと、後日、せっかくの建築が途中で壊れるようなことにもなりかねない。志を立てることは、このように人生にとって大切な出発点であるから、誰しも簡単に見過ごすことはできないのである。

 - 『論語と算盤』より

私にとっての大きな志がそういうものだとするならば、それの飾りとなる小さな志を立てるのが吉となる。志というとやや堅苦しくなるが、言わば夢のようなものだと思う。私は、夢追い人なのだ。これをどうにかして自分に染み込ませることで、少しでも良い人生を歩んでいく。

私はどうも自分の心を律するのが苦手で、人々の声によく惑わされる。臆病で不安症なものだから、途端に恐怖を覚えてしまうのである。さらに言えば、サラリーマンの世界に深く入り込むほど恐怖は強まるであろう。

そこで、日記である。毎朝ノートに私の志を書く。毎晩今日できたことを書く。小さくとも書く。これだけを習慣づけるのである。自分の心を乱さないために、あるいは確立させるためにこれを毎日続けることとする。

最初はダイアリータイプのモレスキンほぼ日手帳を買うことを検討したが、結局ただのノートに落ち着いた。ブランド手帳はやけに高い。また、私は過度なもったいない思考の持ち主で、ノートは隅々まで埋めないと気が済まないタイプである。この思考と手帳の相性は最悪で、故に手帳だけはどうも続けられない体質らしい。過去、ほぼ日手帳に手を出して失敗したこともあるため、まずは普通のノートにすることとした。私のお気に入りはライフノートで、やや高いが手帳に比べれば随分とお得である。

ライフ ノート ノーブルノート 方眼 A5 N33

ライフ ノート ノーブルノート 方眼 A5 N33

 

さて日記を書くことは、やってみれば意外と簡単なもので、数分で終わる作業である。効果が出るかは今後見ていくとして、少なくとも今はとても楽しんでいる。志を書き、数分間目を瞑り、理想の姿や状況を想像する。空想する。妄想する。すると心がよく落ち着き、活力も湧いてくる。これだけでも十分に効果があるのかもしれない。

また、今までは布団に入ることが嫌いだった。金曜日のそれは最高なのだが、仕事の前日は最悪である。次の日が来ることに怯えていたからだ。それが今はない。早起きして日記を書く。空いた時間でブログを書いたり、好きな本を読む。少なくともこの時間は幸せで、仕事の前に幸せを感じれるおかげか布団に入ることに嫌気をささなくなった。意外にも良い効果を生んでいる。

書いていくことで、今は迷いが生じていることに気付かされると思っている。あるいは本当にやりたいことが見つかるかもしれない。それには時間がかかることも分かっている。だからこそ毎日思い描くのである。毎日思い描き、「私の志」を確立させるのである。