「晏子春秋」に学ぶ、人として正しい生き方とは。

宮城谷昌光の小説『晏子』が非常に面白かったので、題材となっている『晏子春秋』についても手に取ってみた。

晏子(晏嬰)とは春秋時代の斉の宰相を務めた政治家で、彼の徳と名声があまりに高かったものだから、後の戦国時代から彼を尊敬する者たちが有志で言行録をまとめた。それが晏子春秋である。晏子は晏嬰の尊称であり、今では晏子の方が広く知られている。

私は特に彼の生き方、それも身分の高い地位にありながら「清貧」を貫いたその思想に感銘を受けたので、それらのエピソードを紹介していきたいと思う。

晏子春秋』と、晏嬰の思想

晏子春秋』は内篇6巻及び外篇2巻の計8巻・全215章の構成となっている。第1巻〜第6巻は主に晏嬰が仕えた君主への諫言に関連した話や逸話が収められている。第7巻には最初の6巻から類似した説話が、第8巻は反儒教的な話が入っていたり、1〜7巻とは趣旨が異なっている。

晏嬰の思想はというと、先ず冒頭に挙げたように大変な倹約家であり、清貧の思想を貫いていた人物と言える。常に質素な生活を貫き、己の欲望に屈することは無かった。

そして与えられた職務は全うし、礼法を重視し、それを前提に人間関係を築いた。また、彼は君子に仕えたのではなく、人民、ひいては社稷(国家)に仕えていると自ら申し、君子に対して堂々と諫言を行っていた。

諫言は君子を怒らせ、最悪の場合は自らの死、および一族の死を招く非常に勇気の求められる行為であるが、彼は臆することなく君主に対して何度も諫言を行い、思想を貫き通した。

晏嬰は身長がわずか150cm程度で大変貧弱な身体であった。当初は晏嬰の父である晏弱および彼の一族のあらゆる者がその貧弱さを嘆いていたが(なにせ、晏一族はもともと武勇を誇る族であったから)、最終的には誰もが尊敬する偉大な賢人へと成長していった。

史記』の作者である司馬遷も晏嬰に対して最大級の賛辞を述べているし、現代になっても『晏子春秋』を基に彼を尊敬する人が後を絶たない。

晏嬰の「清貧さ」を表すエピソード


ここからは晏嬰がいかに質素倹約な生活を行い、欲望に負けず、「清貧さ」を貫いていったのかを表すエピソードを紹介していきたい。

なお、これらは主に以下の書籍からの引用で、補足等を別途加えさせて頂いている。また、これらのエピソードのいくつかは宮城谷昌光の小説『晏子』にも出てくるので、興味がある人は先ずそちらに手をつけて頂ければと思う(歴史小説で非常に面白いし読みやすい)。

また、晏子春秋によく出てくる恵公という人物は、当時晏嬰が仕えた斉の君主である。

職を辞めて耕作に転ずる

壮公(恵公の前代)は諫言ばかりしてくる晏子を疎ましく思うようになり、ついには晏子に対して遠回しに職を辞めるように仕向けた。

それに気づいた晏子は官給の品物は全て返上し、私物は市場に放置し、職を辞めた。

「国民が裕福であれぼ、高禄をいただき、富貴を断るものではないが、国民が貧窮している時には、他郷で貧践を味わうことをいとうものではない」といって、東方の海岸まで歩いて移り、そこで耕作をして身を過ごした。

荘公は、晏子がいなくなって諫言をする者もなくなったので、思うままに力自慢の者を採用し、国民の勤勉努力を考えずに軍兵を増やし、晋(斉の敵国)に攻めこむなど戦いをやめることがなかった。そこで国は疲弊し、国民は困窮した。その上、荘公は素行が修まらず、自分を擁立した崔杼(さいちょ:斉の大臣)の妻と通じて、その邸で殺される結果になった。

恵公の前代である荘公は、自らの欲望を止めることができず、わずか5年の在位で死んだ。恵公は徳政により、晏子を呼び戻している。

———
辞めろと言われてきっぱり辞められるものは少ないだろうが、晏子はきっぱりと、しかも俸禄や財産も捨てて辞めた。そして自ら貧民に降った。またこのエピソードに限らず、晏子は自分に衰えを感じ、自身の能力が身分にふさわしくないと思うとすぐに辞職を願い出ている。この勇気は、見習いたくても見習えない所業であろう。

ちなみに崔杼は晏嬰の父である晏弱の代から活躍し、度々晏弱の助けにもなっていた優秀な大臣だったのだが(このあたりは小説『晏子』を見て頂きたい)、最後は欲望と私怨に取り憑かれ悲惨な最期を迎えた。

恵公が天災を憂えないのを諌める

その年、天候不順で長雨が17日も続いたのに、景公は相変わらず酒を飲み続けていた。晏子が、蔵米を出して困窮している人民に分配するよう願い出たが、三回願い出ても聴き入れられなかったばかりでなく、拍遽(はくきょ)という家臣に命じて、国中から歌のうまい者を集め、享楽にふける有様であった。

晏子はこれを聞いて歎き悲しみ、遂に自分の家の扶持米を民に分ち与え、それを運ぶ道具や馬車まで道路に置いて救済に当たった。そして自分は歩いて宮廷に行き、景公にお目通りを願っていった。

「長雨が17日も降りつづいて、家が壊れたものがーつの村に数十もあり、ーつの部落に数軒は食ベるものもない有様です。国民は老いも若きも、寒くても着るものもなく、飢えても食べるものとてありません。うろうろとさまよい歩き、訴えるすベもない有様であります。

それなのにあなたは、そのことを心配もされず、日夜酒を飲み、国中から歌のうまい者を集めて楽しんでおられます。政府の馬は蔵米を食べ、犬は肉食に満腹し、側妾は美食を当然と思っています。官廷の者だけがよすぎて、民百姓がひどすぎませんか。

ですから村や町は困窮してもそれを訴えて救って貰えないので政府の有難さもわからず、民は餓えても心配して貰えないので君主の有難さもわかりません。

自分は命を奉じて百官を統率して参りましたが、人民に飢餓困窮を訴えさせることもできず、あなたを酒色にふけさせて、民心を失わせてしまいました。私の罪は大でありますから、辞任させていただきます」と深く頭を下げ、別れを告げて、早々に出て行ってしまった。

景公は驚いて大急ぎでこれを追いかけ晏子の家までやってきたがすでに居らず、蔵米は全部なくなっており、道具や車が路に出されたままの状態だった。景公はさらに馬を駆りたてて、町外れの大通りで漸く追いつき、車を降りて、晏子とー緒に歩きながら言った。

「自分が悪かった。おまえに見捨てられては自分は何もできないじゃないか。おまえは国中人民も見捨てるのか。どうか自分を今まで通り援けてほしい。斉の国の金も食物もすべて人民のために出すから、お前の思うようにしていい。どうか思い直してくれ」と、遂には道に座りこんで頼みこむ有様であった。

そこで晏子も了解して政庁に帰り、役人に命じて国中を巡回させ、支援に当たらせた。その処置は実によく行き渡った。

景公も宮廷を出て民間に宿をとり、生活を簡素にして酒をやめ、食物をヘらし、政府の馬には蔵米を食べさせず、犬には肉を与えず、近臣の俸禄を減らし、食客にも節約をさせた。

景公はそれから私邸に入って謹慎生活をし、食事の膳を減らし、歌舞音曲をやめた。

———
荘公は悪徳君主であったが、残念なことに恵公も中々のクズであり、酒と狩りが大好きだったらしい。したがって『晏子春秋』は、そんなクズな恵公に対する晏子の諫言が多くおさめられている。

しかし荘公と違った点は、晏子の諫言を最後まで聞き入れたことである。

結局後世でも恵公が評されることは無かったが、自分の悪行を認め、晏子の諫言を素直に認めるその姿勢は素晴らしいものだと思う。

富に対する考え方を説く

晏子は君主から俸禄や領地を与えられようと必ず固辞し、富を追求することは無かった。

そこで高子尾(こうしび)という者が不思議に思って「富というのは誰でも欲しがるのに、あなたはどうして受けないのですか」とたずねた。

すると晏子は以下のように答えたという。

「慶氏の所有地は欲望を満たすに充分な土地であるが、それで亡んだともいえる。自分の所有地は欲望を満たすことはできないが、これに与えられた土地を加えると、満たすようになる。そうなれば、間もなく亡ぶようになるだろう。そうしたら、ーつの村だって治めることができなくなるではないか。土地をいただかないのは、富を嫌っているのではなくて、富を失うことを恐れているのだ」

またこうも言っている。

「富というのは反物の幅がきまっているようなもので、これを変えることは許されない。人は生活が充分で費用は豊かであることを願うけれども、正しい徳をもってその欲望に制限を加え、みだりに越えないようにしなければならない。これを、人の裕福を願う欲望にー定の制限を設ける(利を峨(が)す)といい、欲望が過ぎると、人の生活は乱れ敗れることになる。自分が必要以上に多くを求めないのは、この利を幅することなのだ」

———
晏嬰は人が持つ裕福と欲望には”幅”があるという独特の表現をして、それを越えてまで富を求めてはならないと強く言っている。

ちなみに文中に出てくる慶氏は富や地位を追求した結果、政争に巻き込まれてある者は殺され、ある者は逃亡した。そして、逃亡した先の国での戦争で殺され、ついには滅亡に至った。このような悲惨な結果を招いた一族は沢山登場するが、誰しもが富を求めすぎていた。

君主が領地を与えようとするも断る

晏子は貴族階級からついには斉の国の大臣(卿や宰相)となったが、粗末な衣服を着て、玄米食をとり、副食は五個の卵と水草類程度の質素なものであった。これを知った景公の側近の者がこのことを知らせ、景公は田無宇(でんむう)を使いに出して、土地を与えようとした。

晏子は以下のように述べて固辞した。

「わが国のご先祖太公太公望:斉の始祖)は、初めて営丘の地に領地をいただき、その五百か村を代々世襲して治めてこられました。太公よりあなたまで十数代になりますが、皆が君侯の意のままに領地をいただいていたならば、あなたの代になるまでに人々が斉に大勢やってきて領地を争い受け、今では寸土もなくなっていたでしょう。

私は、その者に徳功があれば禄をいただき、徳功がなけれぼ禄を辞退すべきだと聞いております。おろかな父親が領地をいただき、それを世襲でおろかな子供に与えるようなことをして、君侯の政を失敗させるようなことはできません」

このことで、田桓子(でんかんし)という者が晏子に言った。

「君侯は喜んで君に土地を与えようとしておられるのに、お断りして君侯を不快な思いにさせることではないではないか」

それに対し晏子は次のように言ってまた固辞した。

「私は、『君侯から賜わることを節度をもって受けるものは長く用いられ、生活を質素にして身を慎む者は、世間にその名が広まる』ということを聞いている。君侯から重用され名を挙げるのは、君子のことである。私は、それを望んでいるのだ」

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暗に自分に徳功はないことを伝え、身を引いているその様に尊敬せざるを得ない。私なら確実に貰っている気がする。

ちなみに宮城谷昌光太公望も小説化している。いつか読んでみたい。
呂尚 - Wikipedia

太公望 上 (文春文庫)

太公望 上 (文春文庫)

善を師として「清貧」を貫く

晏子が斉の大臣となって僅か3年で政治は公平に行なわれるようになり、市民はそれを喜んでいた。

恵公の近臣である梁丘拠(りょうきゅうきょ)が所用で晏子を尋ねた時、ちょうど食事中であったがその食物の中に肉の姿が見えなかった(※この時代、肉は高級品だった)ので、帰ってからそのことを景公に伝えた。景公は翌朝、晏子を召して、ゆたかな都昌の土地を与えると告げた。

晏子はこれを断っていった。

「富裕になっても心驕らない人というのは、私はまだ聞いたことがありません。貧しくても苦にしないのは、善を行動の基準として従っているからであります。いま、都昌の土地を頂いて富裕になりますと、驕って道義を軽んじ、富裕を師としてこれに従うことになりますが、私は善を師とすることを変えることはできませんので、ご辞退申し上げるわけであります。どうかお許し下さい」

またある日、晏子が食事をしようとしている時に、景公の使者が来たので、それを分けて使者にも食事を出したが、使者も満腹せず、晏子も充分ではなかった。使者は帰ってからこのことを景公に告げた。景公は「ああ、晏子の家はそのように貧乏しているのか。それを知らなかったのは自分の罪だ」として、千金と税金とを届けさせ、これからは臣下としてではなく、實客として優遇したいと告げさせた。晏子はこれを断ったが、三度も重ねて薦められたので、丁重に申し上げた。

「私の家は決して貧乏ではありません。君侯からいただく俸禄をもって、父母、兄弟、妻子の三族がうるおっており、さらにそれは友人にも及び、自分の領地の人民にも施すことができております。俸禄は充分で、決して貧しいことはありません。

私は次のように聞いております。

たくさん俸禄を貰って、それを自分の領地の民に施すのは、臣下が君に代わって人民の君主になることで、忠臣というものはしないものです。たくさんに俸禄を貰ってそれを人民に施さないのは、かごの中にためこんだ貯え(筐篋(きょうきょう)の蔵)といって、仁人といわれる人はいたしません。俸禄をいただきながら人に施さずに人から怨まれ、死ぬと他人から財産を奪われるようなのを、主人の財をとりこんだ貯え(宰蔵)といって、智者はいたしません。粗衣粗食であっても、飢え凍えを免れれば充分であります」

そこで景公は、さらに晏子に告げた。

「わが先君の桓公が功臣の管仲に、五百か村の領地を与えた時に、管仲は受け取っているじゃないか。おまえはなぜ受け取ってくれないのか」

晏子は次のように答えた。

「私は次のように聞いております。聖人といえども千にーつの間違いはありますし、おろかものにも千にーつぐらいは正しいことをやるということを。きっと管仲ほどの人でも、それは千慮のー失で、私のは千慮のー得とも申すべきものでしょう。どうか、これだけはお許し願います」

———
管仲とは晏子と同じく斉の名宰相と言われており、晏子と並んで評されている賢人である。管仲が領土を受け取ったことを晏子は賢人が行う千慮の一失と答え、自分は管仲に並び立たない愚か者(千慮の一得)と、あくまで謙虚に辞退している。

ちなみに宮城谷昌光管仲も小説化している。こっちもいつか読んでみたい。
管仲 - Wikipedia

管仲 上 (文春文庫)

管仲 上 (文春文庫)

吝・嗇・愛について語る

晏子は使者として晋に向かった際、晋の名臣である叔向(しゅくきょう)と会談を行なっている。

叔向が裔と吝と愛の行ないの差についてたずねた。

「嗇は君子の道で、吝と愛とは小人の行ないといえましょう」

「それはどういう意味でしょうか」

財物の多い少ないを計算して乱費を遊け、富んでも財物をいたずらに蓄えることなく貧しい人に分ち与え、貧しくても財物の助けを人から借りないのを嗇といいます。

財物を積み蓄えても、人に分け与えることをせず、自分だけ贅沢をするのを吝といいます。

人に分け与えることもできず、また自分でそれを使うこともできず、無駄にしてしまうことを愛といいます。

同じくものを惜しむことでもこれだけの違いがあり、嗇は君子の道で、吝と愛とは小人の行ないと言わねばなりません」

———
晏子曰く、財産の使い方によって賢人と小人に分けられるのだとか。これは現代でも適応できる考え方であろう。

ちなみに叔向もこの時代において屈指の賢人と言われており、このエピソードの他にも晏嬰と互いの国の将来を憂えていたり(いわゆる愚痴である)して面白い。

羊舌肸 - Wikipedia

恵公に君主としてのあるべき姿を説く

恵公は前述した通り言わばクズなので、諸侯の評判は悪く、人民は親しまないので、恵公は心配して晏子にたずねた。

「昔の立派な君主といわれた人は、どのような行いをやっていたのだろう」

「その行いは公正であり、よこしまなことがないので、讒言(ざんげん)の入り込む隙がありません。

一部の者に調子を合わせて派閥をつくったり側近の者に偏執したりしないので、多くの言葉巧みな者が取り入ることができません。

自分の所得を少なくして人民の所得を増やすようにするので、税の取り立て人が働くことがありません。

大国の土地をかすめとったり、小国の人民を減らすような圧迫を加えないので、諸侯は、その君侯がますます尊敬されることを希望します。

兵力で人を脅かしたり、多人数の暴力で人を威圧したりしないので、天下の人は皆その君侯がますます強くなることを飲迎します。

その徳行や教訓は諸侯に影響を及ぼし、その慈愛や恩恵は国民の上に注がれます。ですから、天下がその君侯に服しますことは、水の低きに流れるように目然のなりゆきであります。

それに反して国運の衰える時の君主は、行ないは公正でなく、好みにあう者を集めて側近につけるので、そしりやへつらいの者が多く集まり、その出入りが激しくなります。

自分だけが栄華をつくし人民のことを考えないので、税の取り立て人が忙しくなります。大国の土地をかすめとったり小国の人民をヘらすようなことをするので、諸侯はその君侯が尊敬されることを望みません。

人を兵力で脅かしたり、多数の暴力で人を威圧したりするので、天下中その君侯が強くなることを歓迎しません。

災厄を諸侯にかけ、いろいろな労苦を国に加えるので、敵国が進入してきても誰も動けず、重臣や貴族は離散してしまい、国民は味方しないのです」

恵公は言った。
「それじゃ、どうすればいいのだ」

晏子は言った。
「どうか言葉、応接を丁寧にし、進物を多くして、諸侯に対しては積極的に友好を結びましょう。罪を軽くし、仕事を少なくして、人民に今までのことを謝るようにしましょう。そうすればよくなると思いますが、構いませんか」

「よろしい。そうしてくれ」

そこで晏子は、諸侯に対して言葉、応接を丁寧にし、進物を多くして礼を尽くしたので諸侯は随従するようになり、罪を軽くし仕事を少なくしたので、国民は親しむようになった。小国の使者は参内し、燕や魯の大国でさえ貢ぎ物を届けるようになった。

このことについて、墨子(思想家)は次のようにいっている。

晏子は、道というものを知っている。

人のためにはかれば道にかない、自分のためにはかれば道を失うようになる。人のために行うものは重んぜられ、自分のために行うものは軽んぜられる。恵公は自分のためにはかって国民に背かれ、人のためにはかって諸侯が恵公のために働くようになった。

すなわち、道というものは人のためにすることにあり、人間の行いは自分の利欲の心を抑えることにあるのである。

だから、そのことを教えた晏子は、道を知っていると言える」

またある時、景公は晏子にたずねた。

「昔の立派な徳をそなえている君主の行いは、どんなものであったろうか」

「収入は自分を少なくして国民に多く、利益は自分は控えめにして世の中広く渡るようにしました。

その人が上におりますと、政を公明にして、正しい教えは行なわれるようになり、天下を威圧するような必要はありませんでした。

その税の取り立てにおいても、実情を調ベ、貧富の差がないように努め、その金を趣味嗜好に使うようなことはありませんでした。

処罰はその地位によって差別をつけず、賞誉は身分の貧賤に関係なく与えました。

楽しいことに溺れず、悲しいことがあっても仕事を粗略にすることはありませんでした。

智力を傾けて民を教導しても威張るようなことはなく、年中力一杯働きながら、人にそれを求めることをしませんでした。

政治は皆がよくなることを目的とするので、下の者はお互いに傷つけあうことをしなくなります。

教育は皆が愛し合うことを目的とするので、国民は憎みあうことがなくなります。

刑罰は法に則り、廃したり罪にしたりすることは民意に納得できるものであります。

そこで、賢人が上におっても窮屈でうるさいことはなく、不敏の者が下におっても怨みがましいことは起きてきません。

天下国家の中で、国民の考え方や欲望が同じであることは、家の中と同じようであり、生活態度がそのまま教えとなるようなことが、立派な徳を備えている君主の行ないであります」

景公が黙っているので、晏子がさらにいった。

「私は次のように聞いております。

人の道をたずねる者は心を厳しくし、人の道を聞く者は態度を厳しくすべきであると。

いまあなたの徴税が重いため、民心は離れています。商売の道は乱れていますので、商人が集まってきません。珍らしい遊びごとが多いので、人民の貯えはなくなっています。植悪が政治にたまり、怨みごとが国民にたまっています。私利私欲が君侯の側に満ちて、恨みごとが国中に満ちています。

それでもあなたは、心を厳しくしてそのことを考えようとなさらないのですか」

景公はわかったといって、その後、珍らしい遊びごとを制限し、市場の物価を公正にし、宮室を華美にせず、土木事業を起こさず、夫役(強制労働)をやめ、税を軽くし、上下心をーつにして努力したので、国民は非常に親しむようになった。

———
国の、そして国を治める者としてのあるべき姿を見事に論じている。そしてそれを恵公に納得させ、治世に導いたのである。

私はこういったエピソードを読むにつれ、素直な恵公がだんだんと可愛く見えてきた。が、結局最後まで何度も晏子に諫言される日々を送っていた。とはいえ国が乱れず繁栄したのは、晏子と恵公が二人三脚で努力した結果だろうとも思える。

ちなみに墨子儒家と対立した墨家を起こした戦国時代の思想家であり、晏嬰の生き様に大きな影響を受けていたとされている。

墨子 - Wikipedia

恵公の賜りを断る

晏子が参内する時、古び破れた車にやせ馬をつけてやってきたのを見て、景公がいった。

「ああ、おまえの俸禄はそんなに少ないのか、ずいぶん酷い乗り物にのって...」

晏子は答えた。

「私はあなたから賜っている俸禄によって、父、母、妻の三族が食べることができ、多くの友人が生きることができ、私は充分に衣食足りております。破れた車でも、やせ馬でも、役に立てば、それで充分でございます」

晏子が退去すると、景公は早速近臣の梁丘拠に命じて、大きな立派な車と良馬を届けさせた。しかし、晏子はこれを辞退し、三度もそれをくり返したので、景公はしびれをきらして晏子を呼び出した。

「お前があの車に乗らなければ、自分も車には乗らないことにする。どうしてそのように固辞するのだ」

「あなたは私に政治を任せておられますが、私は衣服飲食の支出を節約して国民の模範になろうと思っています。それでも知らぬうちに贅沢になっていないか、反省が足りないのではないかと心配しています。いま立派な車と良馬に君侯が乗られるだけでなく、私までが同じようなことをすれば、人民は筋が通らないといって、衣服飲食が贅沢になり、その行為を反省しない者も出て参りましよう。私はそれを禁ずることができなくなります」

またある時恵公が、晏子に狐の白裘(はくきゅう:腋の下の白毛でつくった高価なもの)と玄豹の色の美しい毛皮の服を贈ったが、その値段は千金もするものであった。寵臣の梁丘拠に届けさせたが、晏子はこれを受けず、三度もーり返したので、景公がいった。

「自分は同じものを持っているので着たいと思うが、お前が受けとらなければ、私も着ないことにする。こんなものをただしまっておくより着古したほういいじゃないのか」

「私はあなたから俸禄をいただき、役人を指揮して政治をやらせていただいておりますが、あなたがこの高価な服をおつけになって、私までがそれを身につけることになりますと、贅沢をさせないようにしている国民のお手本になりません。それでは政治が崩れてしまいます」と言って、絶対に受け取らなかった。

さらにある時、宰相の晏子が、士の位の者と同じような質素な服で参内してきたので、恵公が言った。

「おまえの家はそんなに貧しいのか。随分ひどい服じゃないか。それに気がつかなかったのは自分の罪である。許してくれ」

「私は次のように聞いております。『充分人の面倒を見た上での食道楽、着道楽なら、多少行き過ぎても悪いことはない。充分人の面倒を見た上のことであれば、多少の悪癖も大目に見られる』と。私は愚か者でありますが、私のー族で私以上の者は見当たらず、私の世話で先祖の祭りをつづけている者が五百家族あります。私がその上でこの衣服をつけて参内することができますのは、結構すぎることではありませんか」

———
最初の2つの話はどちらも三度断ると恵公が必ず物申してくるという、逸話にありがちな話になっているかもしれない。それほどまでに晏嬰が清貧を貫いていたということであろう。

また、毎度のごとく恵公が晏子の粗末な姿に驚いており、恵公はどんだけバカなんだと突っ込みたくなるだろうが、こちらも晏子の清貧さを表現するために、恵公に何度もバカを演じさせているようにも捉えられる。

老いを理由に領地を返上しようとする

晏子は長く景公の大臣をしていたが、年老いたことを理由に、領地を返上したいと言ってきたので、恵公は言った。

「わが先君定公から自分の代まで、代々世を襲いで国を治めてきているが、斉の国の重臣で、年老いたからといって、その領地を返上してきた者はない。いま、おまえがひとりそれをやろうとするのは、国の昔からのしきたりを破り、自分を見捨てようとしていることだ。絶対に許さないぞ」

「私は次のように聞いております。『昔、君侯に仕える者は、わが身の才徳にかなった禄を頂く。すなわち、才徳があれば禄をいただき、才徳がなければ禄をお返しする』と。才徳があって禄をいただくのは、君徳を明らかにすることであり、才徳がない時に禄をお返しするのは、臣下の志をいさぎよくすることであります。私は年老いて才徳もうすくなり、仕事もできなくなりました。これで高い俸禄をいただいているのは、上の明徳をけがし、下の志ある行ないをけがすものであります。いただいているわけには参りません」

景公は、これを許さずにさらにいった。

「昔、わが先君の桓公は、宰相として自分を助け、諸侯の覇とならせた管仲をいたわり、年老いてからも、これを賞して三帰の地を与え、その恩恵を子孫にまで及ばせようとした。おまえも、管仲と同じように、自分の宰相であり功績があるのだから、それに土地を与え子孫にまで恩恵を及ぼさせてもよいではないか」

晏嬰はこう言った。

「昔、管仲桓公に仕えた時には、桓公の名徳義は諸侯の間で高く評価され、その徳政は国民にあまねく及んでいました。いま私はあなたにお仕えしておりますが、国威は漸く諸侯と並ぶに過ぎず、国民の間には怨みがつもりたまっています。それは私がいたらないからで、私の罪であります。それなのに、あなたが私を賞されようとされるのは、おろかな父親がおろかな予孫に土地を残すことになり、国民とともに歩むべき道すじを破ることになります。それに才徳がないのに高禄をいただき智才がないのに家がゆたかであるのは、恥を晒し、教えに逆らうもので、お受けするわけには参りません」

しかし恵公は許さなかった。そこで晏子は、他日宮廷に出向いた時、隙を見て手続きをし、車一台分の土地を返上して、その趣旨を明らかにしたという。

———
今の経営者や政治家、位の高い人の多くはその地位の高さに踏みとどまろうと試行錯誤しているが、それは昔も同じであったのだろう。それなのに晏子は、自らの財産まで返上しようとするのだから、いかに謙虚に清貧を貫いたのかが分かる。

いまの時代こそ、晏子を見習いたい

2000年以上前の春秋時代と比べると、現代は相当豊かにはなっているが、晏子の思想や諫言は一切古びていない。

それどころか、晏子が危惧し諌めなければならない状態が今の日本、ひいては世界に蔓延っているのではないだろうか。

だからこそ晏子の生き様は私に深く影響を与えたし、いまこうしてブログに書かせて頂いているのである。晏子が貫いた「清貧」さは、今わたしが最も見習いたい作法であると共に、「清貧」という言葉が多くの人に届いて欲しいとも思っている。

また、晏子のように国を思い、現代の君主に対し諫言できる者が誕生することを、心から願うばかりである。